【時視各角】金正恩と「ナッツ姫」「水かけ姫」姉妹

【時視各角】金正恩と「ナッツ姫」「水かけ姫」姉妹

2018年05月08日10時40分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  数日前、酒の席で会社の先輩と言い争いになった。

  「金正恩(キム・ジョンウン)が思っていたよりも礼儀があって謙虚さを備えているようだ」という私の言葉に心が穏やかでなかった先輩が「同じ三世として、大韓航空姉妹よりましだった」という一言で爆発してしまった。「礼儀正しく謙虚なヤツが叔母の夫を射殺し、異母兄弟の兄を毒殺するのか」と言って、突然怒り始めた。「核兵器とコップがどう比較されるのか」と言って怒りを高めた。これ以上余計なことを言うと、コップではなく酒杯が飛んでくるような雰囲気だったので話題を変えたが、内心自分の中にももやもやが残った。

  そのようなもやもやは私の心の中だけにあるのではなく、韓国社会全体に広まっているようだ。趙氏姉妹との比較は行き過ぎだったとしても、金正恩の本音に対する見解の違いが社会全体をすっきりしない雰囲気にしている。変化した金正恩と相変わらずの金正恩という2つの見方があるということだ。すっきりしないのは、2つとも不確実性が多いからだ。人は見たいものだけ見るというが、それはどちらにも当てはまる言葉だ。

  金正恩の立場からは南側の訪問は大成功だった。祖父や父は論外という好戦性と残忍非道さを、ソフトな言葉使いと瞬発力のあるユーモアで変えた。平壌(ピョンヤン)冷麺店に味も分からない若者たちが列を作り、「~と言えばダメでしょうね」が流行語になるほどだ。対話する時に傾聴する姿からも、北朝鮮記者を手で制止する時にも権威的な態度は見られなかった。演技だとしたら主演級だった。習慣は隠しにくく、どこからでもボロが出るものだが、一切そういうものはなかった。権力世襲に体質的拒否感を感じる私が礼儀と謙遜という言葉を使ったのはこういう理由だった。社会主義階級意識はなく、資本主義の物質的豊かさを経験したため先代とは違うだろうと言っていた執権初期の期待がよみがえる瞬間だった。

  別の見解は、北朝鮮が完成したばかりの核を放棄するわけがないという合理的な疑いから出発している。金正恩の融和的ジェスチャーはすべて「ショー」で、だからこそ一層憎むべきなのだという。金正恩が「正常国家の指導者」の演技をするのは、トランプという自分よりも上を行く相手に会うためだ。米国まで核兵器を飛ばすことのできる挑発手段(ICBM)がまだ完成されていない状況で、どうにかしてトランプの「火炎と怒り(Fire and Fury)」を避けてやろうという戦略だ。その上、「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化(CVID)」に見えるように米国をだますことができるという計算に至ったということだ。米国の要求がPVID(永久的検証可能で、不可逆的な核廃棄)に強化されたのはこのためだ。このような状況で、終戦宣言だの在韓米軍撤収だの云々するいい加減な主張には呆れる。

  前述したように、このような2つの見解はどちらも確信につながるには不足しているものが多い。すべてが金正恩の意のままであるわけだ。だからこの2つをどちらも持っておくのが良い。変化は期待するが、疑いは解いてはいけないということだ。どちらも行き過ぎてはいけない。万に一つ、反対の立場になる場合を考えなければならない。この部分で重要なことは、私たちに変えられる余地があるということだ。いくら演技だといっても、一歩踏み込んでみれば、金正恩が予想できない変数にぶつかることもあるはずだ。その変数を私たちが最大限に利用しなければならない。そのためには確実な「ムチ」と「ニンジン」を見せなければならない。双方どちらの立場に立っていようとも、金正恩は自分が持つカードを最大限利用しようとするだろう。確固たる交渉家にならなければならない。何が利益なのか、はっきりと感じさせなければならない。そして、信頼なくして変わる現実もないことを明らかに示さなくてはならない。

  その結果を知るまでに、そう長くはかかりはしないだろう。同じ三世だが、誰がもっとましか、もうすぐ明らかになる。金正恩も趙氏姉妹も同じだ。終わりのようだが私の考えは相変わらずだ。私の考えが正しければ良いのだが。

  イ・フンボン/論説委員
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