本業のフィルムもあきらめた“55年富士マン”、ゼロックスまでのみこむ(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.02.05 16:03
ゼロックスはますます厳しくなったが、富士は違った。2004年、古森社長(当時)は富士フイルム創社70周年を迎えて思い切った構造調整を宣言した。本業であるフィルム事業を事実上あきらめる内容だった。代わりに、フィルムを作る過程で得た高度な技術力を活用した。化学分野の多様な事業に適用することができた。化粧品や医薬品、医療機器、液晶用フィルムなどに事業を拡張した。
終身雇用が「常識」だった日本では破格的に5000人の人材を整理した。その過程で陣痛が小さくなかった。CEOが直接乗り出した。職員に会って会社の事情を説明して理解を求めた。「死ぬよりは手術した方がより良い」と説得した。会社を離れる職員には慰労金を含めて十分な退職金を与えた。彼は「我々の構造調整は血も涙もない『ドライ(dry)』な構造調整ではなかった」と回顧した。
2008年には世界金融危機に直面した。古森社長(当時)は再び構造調整に出た。核心人材を海外に派遣し、グローバル市場に積極的に対応した。グループの売り上げの半分以上を海外で創り出す構造を作った。構造調整の波の中で富士ゼロックスはグループの強固なドル箱(キャッシュ・カウ)の役割を果たした。