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ハワイ老人ホームでさびしい最後を迎えた朝鮮時代最後の皇太孫妃(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.12.06 13:10
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1963年、英親王夫婦の要請で夫の李玖氏(左)とともに韓国に来たジュリア夫人。彼らはこの時から昌徳宮楽善斎で暮らした。(写真=中央フォト)
朝鮮王家最後の皇太孫妃の死はさびしかった。他界の便りさえ10日が過ぎた5日に、遅まき知らされた。大韓帝国最後の皇太子・李垠(イ・ウン)の一人息子である故李玖氏のジュリア・リー夫人(本名、ジュリア・マロック)が先月26日、米ハワイのハレナニ老人ホームで老患で死亡した。94歳。

ジュリア夫人の訃報を伝えた誠心女子大音楽科のイ・ナムジュ元教授は「携帯電話も使えないほど、体が不自由で横になっていたが、さびしく目を閉じた」と伝えた。イ教授は李玖氏が三従叔父であるの姪だ。

 
ジュリア氏はドイツ系アメリカ人で1950年代後半、米ニューヨークで李玖氏に出会った。中国系米国人建築家であるイオ・ミン・ペイ(I.M.Pei)の設計事務所でインテリアデザインを担当していたジュリア氏は職場同僚から独特な東洋人男性を発見した。MIT工科大学を卒業した建築家である李玖氏は繊細で落ち着いた性格で、ジュリア氏を魅了させ、27歳の李玖氏と35歳のジュリア氏は1958年、結婚した。イ・ナムジュ教授は「さびしく他国を飛び回っていた李玖氏に8年年上のジュリア氏が母や姉のように頼りになっただろう」と話した。

李玖夫婦は63年、日本に滞在していた英親王と李方子(イ・バンジャ)女史の要請で共に帰国し、ソウル昌徳宮(チャンドックン)楽善斎(ナクソンジェ)に定着した。才能が多くて情があふれる気質のジュリア夫人だったが、見慣れない宮廷生活と王の親戚からの無視に耐えることは大変だった。青い目の異邦人世子嬪を認められなかった宗親会は、子孫がいないという理由を挙げて李玖氏に離婚を勧めた。楽善斎が嫌いだとしてホテル生活をしていた夫と別居状態だったジュリア夫人は結局、82年に離婚書類にハンコを押した。

イ・ナムジュ教授は「姑の李方子女史と不和になったが、楽善斎に針仕事の部屋を作り、李女史が運営していた社会福祉法人『明暉園』の障害者を雇用して技術訓練をさせるなど、朝鮮王家の最後の女性として道理をつくした」と説明した。彼に仕事を習った障害者は、ジュリア夫人を「クンオンマ(伯母という意味の韓国語)」と呼んで従ったが、離婚後にも「ジュリアショップ」というブティック店を経営して福祉事業を続けた。


ハワイ老人ホームでさびしい最後を迎えた朝鮮時代最後の皇太孫妃(2)

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