【時視各角】尹東柱が問う、恥ずかしくないのかと=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.03.03 15:14
先週末、映画『東柱(ドンジュ)』を見に行った。映画のエンディングの字幕がすべて流れ終わり、映画館に明かりがつくまで、席から立ち上がる観客はいなかった。映画が終わった後にまで続いた短かくて長い静寂は馴染みのないものだった。立ち上がって周囲を見渡した。私と同じくらい茫然とした表情で依然としてスクリーンを見つめたままの観客が目に映った。
映画が私にある立派な考えやインスピレーションを呼び起こしたわけではなかった。初めはただふさがった気分で感情がこみ上げただけだ。「このような時代に生まれて詩人として生きようと思った私自身が恥ずかしい」と言って嗚咽する東柱の最後の場面が、頭の中で自ずと再生されていた。そして青年詩人の尹東柱(ユン・ドンジュ)が私に投げかけた言葉、「恥ずかしい」という言葉が私を満たした。この言葉を振り払わなければ別の話に移れないほど引っ掛かっているため、もともと書こうとして取材した別のテーマは持ち越して今やむを得ずこの文を書いている。
「このような時代」。国の主権を失い、言葉と文を失い、名前まで失った時代。「アジア解放」という名分を突きつけて罪のない詩人を人体実験のマルタとして投入し、命を要求した狂者のような日帝治下が彼の時代だった。言葉と文は狂気じみた名分の道具に堕落し、純潔な言語は弾圧を受けた時代を生きた詩人は、その卑しくなった言語をつかんで恨みや怒りではなく恥ずかしさを吐露した。