李奉昌義士の「最後の写真」発見

李奉昌義士の「最後の写真」発見

2014年10月03日13時58分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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李奉昌義士が死刑を言い渡された1932年9月30日、朝日新聞が号外を発行した。李義士の写真の横には次のような説明がある。「大逆犯人李奉昌(上)彼の生家(下右)と東京で宿帳に認めた筆蹟」(写真=梅軒記念館)
  独立活動家・李奉昌(イ・ボンチャン)義士(1900-32)の「最後の写真」とみられる顔の写真が初めて見つかった。李義士が死刑を言い渡された1932年9月30日、朝日新聞が発行した号外に掲載された写真だ。この写真が掲載された10日後の10月10日、李義士は絞首刑に処された。

  尹奉吉(ユン・ボンギル)義士を記念する梅軒(メホン)記念館のユン・ジュ館長は2日、「梅軒・尹奉吉義士の資料を収集していたところ、日本でこの写真を発見した。李奉昌義士が残した写真は数枚にしかならない。この写真以後の写真は見つかっていない。李奉昌義士が残した最後の写真とみられる」と述べた。

  李義士は1932年1月8日、東京で裕仁天皇の行列に向けて手榴弾を投げた。宮内大臣の馬車がひっくり返ったが、義挙は失敗した。逮捕された李義士は東京刑務所に収監された。9月30日、東京裁判所で350人余りの警察が幾重にも囲んだ中で行われた裁判で死刑を言い渡された。その日に朝日新聞が発行した号外に李義士の横顔が掲載されている。10月10日の絞首刑で殉国する直前の姿だ。当時、李義士は未婚だった。

  ユン館長は「写真を見ても頬がこけていて、非常にやつれた顔だ。激しく尋問を受けたとみられる」と述べた。号外には李義士の生家の写真と東京の宿泊地に残した李義士の筆蹟の写真も同時に載せられた。

  李義士の義挙は尹奉吉義士の上海義挙、安重根(アン・ジュングン)義士のハルビン義挙とともに日帝時代「3大義烈闘争」に挙げられる。李義士はソウル龍山で生まれた。幼い頃、日本人が経営するパン屋の従業員として働いて虐待を受け、南満州鉄道会社で運転の見習いをしている時は「朝鮮人」と侮辱された。1909年の安重根義士の義挙に刺激された李義士は日本に渡った。日本語を習うなど6年間ほど日本に慣れた後、中国上海の臨時政府を訪ねた。秘密裏に白凡・金九(キム・グ)に会った李義士は自分の心情をこのように語った。

  「私はもう31歳です。今後さらに31年間生きるとしても、今より良いことはないでしょう。人生の目的が快楽なら、過去31年間に快楽というものはすべて味わいました。これからの永遠の快楽のために命を捧げる覚悟で上海に来ました。私に世の中を驚かせる聖業をさせてください」。

  白凡は李義士とともに安重根義士の弟の家に行った。李義士はそこで太極旗(韓国の国旗)を前に置き、両手に手榴弾を持ったまま天皇に対する狙撃を宣誓した。李義士の義挙は、日本の帝国主義が神格化した天皇の権威に深刻な打撃を与えた。当時沈滞していた上海臨時政府の独立運動に火をつけることになった。
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