【コラム】自らおとしめる「日帝残滓」の言葉、使わなければならないのか=韓国(1)

【コラム】自らおとしめる「日帝残滓」の言葉、使わなければならないのか=韓国(1)

2014年04月08日14時24分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  私の脳は時代遅れの386コンピュータだ。一度入力しておいた情報は、なかなか変え難い。ダシダ、マッナミ、カムチミ。歳月を経て名前が何回変わっても、調味料は私にとって味元(ミウォン)だ。日帝の残滓として禁止された「国民学校」という言葉も、私の口からはよく飛び出してくる。使うなというタクアンやオデンも、タンムジやオムクよりも意味伝達が確実で、ジャージャー麺よりも「チャジャン麺」と言ったほうが麺がさらにコシが強く思え、効果(ヒョガ)を「ヒョカ」と読んでこそ意が確かに伝えられる。

  使わないことを推奨した上の単語は、使わなければ良いし使っても大きな問題はないように見えるが、廃棄されるべきぞっとするような単語が1つある。

  「高麗葬」だ。

  インターネットのサイトごとに似たように記されているが、ネイバー知識百科を引用すると「老いた両親を山の中のくぼみに放置して死んだ後に葬儀をしたという風習で、現在でも老いて衰弱した親を見慣れぬ場所に遺棄する行為を指し示す用語として使われることも…高麗という名称のために高麗(コリョ)時代にあった葬儀風習のように認識されているが、こうした風習があったという歴史的資料や考古学的証拠は全く発見されておらず…高麗葬が老父母を山に捨てる葬儀風習を意味する言葉として初めて使われたのは、米国の作家グリフィス(William Elliot Griffis)が日本に滞在していたときに書いた「韓国の古代社会で老人を生きたまま埋めてしまう高麗葬が盛行…」という文のためだが…一度も韓国に来たことがなく日本の資料だけでわい曲して叙述した親日作家の文のために説話が歴史的事実に変身して固まったと見られ…」。あちこちを確かめてみれば、高麗葬という言葉は、確実に日帝の残滓だ。

  それでも私たちは新聞でテレビで会話で、いまだに使っている。この前テレビで「新高麗葬、バスターミナルに捨てられた老夫婦」というタイトルの番組を見た。

  老いた親をターミナルに遺棄したひどい子供たちの話だ。

  田舎で養鶏場を経営しながらうまくやっていた老夫婦は、長男と一緒に暮らすために家と土地を売って長男の嫁とソウルに来ることになったが、バスターミナルに到着するやいなや長男の嫁に遺棄される。この事実を知っても無視する長男、次男、嫁。

  見ている間中、怒りが込み上げてきたが、私を最も腹立たしくさせたのはタイトルだ。「新高麗葬」と。高麗葬を認めるということだ。「孝を最も重要な徳と感じていた高麗時代に、老いた親を山に捨てる葬儀風習が果たして存在したのだろうか」という疑問を感じるたびに、「そうしていたからその言葉ができたのだろう」と言いながら私たちがあまりにも簡単にうなずいてしまったのでないか。日本人が出した『伝説の朝鮮』 『朝鮮童話集』などにこうした説話が収録され、『高麗葬』という映画が出てきた後からこの説話が歴史的事実のように広がったものだったのに。

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