「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(2)

「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(2)

2012年04月04日15時23分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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『朴正煕(パク・ジョンヒ)評伝』(英語名Park Chunghee)。
  --民族を裏切るという考えはなかったのか。

  「満州軍軍官学校に入学した年が1940年。 当時の日本軍は破竹の勢いで中国を攻めた。 日本の東洋制覇を疑う人がほとんどいない状況だった。 日本の秘密文書を見ると、日本に非協調的だった韓国人の大半が協調的に変わったと書かれている時期だ。 23歳の朴正煕もこうした雰囲気にのまれるしかなかった」

  --入学願書とともに血書まで書いたが。

  「1939年、40年当時、日本軍に入隊するための血書提出は一種の流行だった。 血書を書いた韓国の青年が39年の初年に45人、翌年40年には168人だった。 彼の軍官学校入学は血書のためではなかった。 彼は日本を敵対視しなかった. 考えてみてほしい。彼の父親が東学にかかわり、墓守として延命する状況で、朝鮮王朝が続いたとすれば、朴正煕はどんな教育を受けただろうか。 日本は彼に教育を受ける機会、将校になる機会を与えた」

  --朴元大統領をかなり擁護している。

  「そう聞こえるかもしれない。 しかし当時の状況を考えて青年・朴正煕の心情と行動を理解してみようということだ。 それが正しいかどうかを判断するのは読者の役割だ。 私も日帝時代を生きてきた一人として、当時の人物に対する理解が先立つのは事実だ」

  --南朝鮮労働党(南労党)として活動した経歴は。

  「南労党に加入したのは、彼が幼い頃から頼ってきた3歳上の兄が光復(解放)直後、米軍治下の警察の銃で死亡した後だった。 当時、韓国人の大半は米軍政に失望して反対した。 こうした状況で兄の友人だったイ・ジェボク牧師が南労党軍事責任者で朴正煕大尉を後押しした。 米軍政下で南労党は不法団体ではなく合法団体だった」

  --61年のクーデターはどう評価するか。

  「私は当時、来るべきことが来たという心情だった。 李承晩(イ・スンマン)博士はあまりにも老衰し、周囲の人物に左右され、4・19革命後に政権を握った民主党の指導者は早くに死去したり、指導力を発揮することができなかった。 社会は非常に混乱した。 張俊河(チャン・ジュンハ)氏と金俊ヨプ(キム・ジュンヨプ)教授が主導した雑誌『思想界』が5・16クーデターを支持したのにも、こうした背景があった」

  ◇イ・ジョンシク=1931年平安南道安州(ピョンアンナムド・アンジュ)生まれ。 韓国独立運動史と共産主義運動史の研究の基礎を築いた。 33年に満州に移住して成長期を過ごし、48年に北朝鮮に帰還したが、1・4後退当時に南下した。 米軍将校の支援で米国に留学し、UCバークレー大学院で‘運命的恩師’スカラピーノ教授に会った。 『韓国の民族主義運動史』『韓国共産主義運動史』とともに、李承晩・徐載弼(ソ・ジェピル)・呂運亨(ヨ・ウンヒョン)ら主要現代史人物の評伝を出した。

「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(1)
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