絹の着物姿の安重根、死を達観した瞳(1)

絹の着物姿の安重根、死を達観した瞳(1)

2010年01月26日12時38分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  今年で殉国から100年となる独立運動家・安重根(アン・ジュングン)義士の最後は毅然かつ壮厳だった。

  殉国の直前に撮った写真(日本国会図書館が所蔵)を見てみよう。故国の母親が作り、送ってきた絹の着物に着替えた同氏の顔から、死刑を控えた者の焦りは見当たらない。「満州日日新聞」(1910年2月23日付)の報道を見てみると、安重根は収監される当時54.5キロだったが、死刑判決の後、56.5キロ)へと体重が2キロも増えた。満州日日新聞は「特異なこと」と報じた(シン・ウニョン著「安重根と韓国近代史」を参照)。

  安重根の生き方と思想をテーマにした論文で博士号を取得したシン・ウニョン博士は「多くの場合、死刑判決後は不安感のため体重が激減するのが一般的な現象だが、安義士は死を控えても心理状態が安定していたことを示す」と解釈した。安重根の非凡さと大胆さは、今回原本が公開された中国・旅順刑務所の栗原貞吉典獄(旧制の監獄の長)の手紙からも見つけられる。

  栗原が朝鮮統監府のサカイ警視(警視正の下、警部の上に位する警察官の階級の一)あてに送った手紙で、安重根義士の最後の姿を発見できるのは一種のアイロニーだ。殉国の直前まで安重根の胸の中には未完成のまま終わった著書「東洋平和論」のことしかなかったようだ。手紙は1910年3月19日に作成された。安義士の殉国(3月26日)から1週間前だ。

  手紙には安義士の最期を類推できる状況が記されている。栗原は安義士に監獄生活の便宜を提供した人物だ。安義士が比較的好意的に評した日本人の1人でもある。朝鮮統監府に所属するサカイ警視は旅順刑務所に派遣され、安重根義士を12回以上にわたって尋問したことがある。日本警察の高官らの間で交わされた業務報告書かもしれないが、そうした文書の中ですら安重根の姿は委縮されずにいたのだ。

  安義士に死刑が言い渡されたのは1910年2月14日。死刑判決から3日後、安義士は平石旅順高等裁判長と会う。「東洋平和論」を執筆するための時間を稼ぐためだった。当初、平石は肯定的だったとされる。安重根は上告もあきらめた。安重根の最後の姿は、「東洋平和論」完成に焦点を当てただけで、すでに生死を超越していたとみられる。上告の放棄には「堂々と死を迎えるべき」という母親チョ・マリアの伝言も大きく働いた。2人の兄弟が母親の言葉を伝えた。

  
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