【その時の今日】朝鮮・清の国境会談が決裂

【その時の今日】朝鮮・清の国境会談が決裂

2009年12月03日12時49分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  1885年12月3日、朝鮮(チョソン 1392~1910)と清の国境会談がおよそ20日にわたる激論の末、決裂した。

  会談中に両国代表団は共に白頭山(ぺクトゥサン)に登り、定界碑を見て、天池(チョンジ)に水源を発した水の流れを探査した。その結果、土門江(トムンガン)が松花江の支流であるという事実を確認した。朝鮮の土們勘界使、李重夏(イ・ジュンハ)は定界碑の文句通りに国境を定めようとし、清国代表の徳玉は豆満江(トゥマンガン)が境界という主張を曲げなかった。

  国境会談は1887年にもう一度開催された。この時、李重夏は以前の主張を撤回し、豆満江の最北端の支流、紅土水(ホントス)を国境線にしようと提案したが、清国は最南端の支流、石乙水(ソクウルス)の案を固守した。紛争が解消しなかったため、1899年に締結された「韓清通商条約」にも国境を明示できなかった。1900年、清国で義和団の乱が起こり、間島一帯が混乱に陥ると、大韓帝国(1897~1910まで朝鮮が使っていた国号)政府は同地に在住する朝鮮人を保護するため官吏を派遣した。

  今回は清国が国境問題を持ち出した。1904年に両国は「国境問題は双方の代表が実態調査を行った後再論するものの、それまでは従来通りにしよう」という曖昧(あいまい)な内容の「善後章程」(後のために良いようにすると箇条書きにしたもの)を締結した。その後、日露戦争が起き、韓国の外交権を奪った日本は1887年、当時の清国の主張を受け入れて「間島協約」を締結することで国境紛争を任意に終了させた。

  だから「間島協約」で間島を奪われたというのは無理な主張である。朝鮮政府が1887年の会談ですでに紅土水を境界として提示したからだ。問題の発端は1712年、白頭山(ぺクトゥサン)定界碑を立てる際、現場調査をきちんと行わなかったところにあった。朝鮮政府は定界碑を立ててから土築と木柵(もくさく)を設けるときに初めて土門江が松花江の支流であることを知った。この事実を後日、清国の使臣として訪れた穆克登に知らせたが、同氏は問責を恐れてこの事実を黙殺してしまった。

  その後、およそ150年の歳月が流れ、双方ともに白頭山定界碑に関することを忘れてしまったのだ。間島協約はすでに無効だ。乙巳勒約(乙巳条約)が無効だから無効であり、中国政府が帝国主義・日本と結んだすべての条約を無効化したから無効である。現在の国境線は1962年の朝中辺界条約によるもので、間島協約当時のラインではなく、1887年に朝鮮政府が主張したラインだ。自国に有利なものだけ記憶するのが精神の健康上にはプラスになるかもしれないが、人間関係には良いわけがない。

  国際関係でも同じだ。東北工程(中国東北部の歴史研究を目的とする中国の国家プロジェクト。高句麗と渤海を中国史の地方政権とする扱いが韓中間の外交問題に発展している)と独島(トクト、日本名・竹島)問題にきちんと取り組むためにも、歴史を見る目は冷徹でなければいけない。

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