【噴水台】御陵の番人、高永根

【噴水台】御陵の番人、高永根

2009年03月04日12時09分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  今年で90周年を迎えた三一運動の起爆剤は高宗(コジョン)皇帝の葬礼だった。3月3日の高宗の因山(大葬)を控えて数十万の群衆が上京していた中、33人の代表たちが巨事の日付を選んだのだ。当時、朝鮮の民衆には高宗が毒殺されたといううわさが一斉に広がった。元気だった高宗がシッケ(コメで作った飲み物)を飲んで寝床についた後に急逝し、その晩、宿直をしていた人が親日派の李完用(イ・ワンヨン)と李址鎔(イ・ジヨン)だったというからそんなうわさも出回ったのだ。怒りを覚えた群衆は高宗の遺体が安置されていた徳寿宮の前で大声で泣きながら万歳を叫んだ。

  高宗が眠る洪陵(ホンルン)に行くと「大韓高宗大皇帝洪陵」と刻んだ石碑が見られる。整然とした碑閣の中でりんと御陵を守っているこの石碑が建てられたのは、陵参奉(従九位の官職)高永根(コ・ヨングン)のおかげだ。高永根は元々長湍(チャンダン)郡守と慶尚(キョンサン)左道兵馬節制使を執り行った役人だった。1903年には明成(ミョンソン)皇后弑殺事件の幇助犯、禹範善(ウ・ボムソン)を日本の広島まで訪ね、首に短刀を刺して殺害した。彼は日本の警察に自首し「元首と同じ空に暮らすことができず、9年ぶりに民の痛切の恨を晴らした」と書いた文を提出した。

  獄苦を経験した後、帰国した高永根は高宗が崩御すると洪陵の陵参奉を志願した。彼には宿題があった。作っても建てることができなかった陵碑の本来の場所を見つけることだった。日本帝国は「大韓」という国号と「皇帝」という称号を刻んだことに文句をつけ、石碑を建てられないようにした。日本帝国が高宗に付与した称号である「李太王」にしなければならないというのだった。4年間、洪陵を守った高永根はある日、斎戒沐浴した後、むしろで包まれたまま放置されていた石碑を建てた。そうしてすぐに純宗(スンジョン)の居所である昌徳宮に駆け付け「今やっと先王の鴻恩に報いた」と処罰を待った。参奉職から罷免された彼は、洪陵横に草庵を建てて住んでいたが、後に近くに埋められた。

  おとといの三一節記念辞で李明博大統領は、日本に対する発言をたったの一言もしなかった。歴代の三一節行事には見られなかったことだ。未来志向的韓日関係を構築しようという李大統領の信念から始まったという解釈が伴うものだった。両国の交流・協力と未来志向はいくら強調しても強調しすぎることはない。だからといって過去を忘れては困る。日本の過去の悪事を長く恨んでばかりいようというのではなく、辛い失策を繰り返さないためには時々過去を振り返る必要があるという意味だ。皆が忘れて過ごしている御陵の番人、高永根の話をちょっと書いてみたのは、そんな意味からだ。亡国の君主のために石碑ひとつまともに建てることができなかったその痛みまで忘れてはいけないから。
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