#過去1:1904年9月29日、日本の遠洋業者の中井養三郎は、日本内務・外務・農商務省に「アシカ猟のためリアンクール島を日本領土に編入してほしい」と請願した。リアンクールは独島(ドクト、日本名・竹島)の当時のフランス語表記。内務省は「日本が韓国合併の野心を持っているという疑いを受ける」として反対した。しかし外務省は「余計な心配」と主張した。請願は翌年1月28日に承認された。余勢をかって日本は1905年8月19日、海軍用の独島望楼を竣工した。独島占拠の事実は1906年3月28日、鬱(陵)島郡守シム・フンテックに通報された。
#過去2:1882年4月30日、検察使の李奎遠(イ・キュウォン)を代表とする102人規模の調査団が鬱陵島(ウルルンド)に到着した。7日間は徒歩、2日間は船で調査した報告書にはこうした記録が出てくる。「日本人78人が伐木しようと侵犯している。港に『大日本国松島(独島)』という大きな木の立て札まで置いている」