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【噴水台】独島と過去史

2005.02.28 20:58
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#過去1:1904年9月29日、日本の遠洋業者の中井養三郎は、日本内務・外務・農商務省に「アシカ猟のためリアンクール島を日本領土に編入してほしい」と請願した。リアンクールは独島(ドクト、日本名・竹島)の当時のフランス語表記。内務省は「日本が韓国合併の野心を持っているという疑いを受ける」として反対した。しかし外務省は「余計な心配」と主張した。請願は翌年1月28日に承認された。余勢をかって日本は1905年8月19日、海軍用の独島望楼を竣工した。独島占拠の事実は1906年3月28日、鬱(陵)島郡守シム・フンテックに通報された。

#過去2:1882年4月30日、検察使の李奎遠(イ・キュウォン)を代表とする102人規模の調査団が鬱陵島(ウルルンド)に到着した。7日間は徒歩、2日間は船で調査した報告書にはこうした記録が出てくる。「日本人78人が伐木しようと侵犯している。港に『大日本国松島(独島)』という大きな木の立て札まで置いている」

 
#過去3:粛宗(スクジョン)22年の1696年、東莱(トンレ)出身の安龍福(アン・ヨンボック)ら16人の漁夫が鬱陵島へ行った。そこに並んだ日本の漁船と漁夫らを見て、安龍福は「われわれの土地に堂々と倭人が…」として怒りを表した。倭人らは「われわれはもともと松島(独島)に住むが、魚を獲りに来てこうなった」と語った。独島は日本の領土ということだ。

#過去4:光海君(クァンヘグン)10年(1618年)、日本の徳川幕府は島根県の大谷家と村川家に80年間、鬱陵島渡海免許権を認めた。当時、朝鮮の「空島政策」で鬱陵島は無人の状態だった。そのスキを狙って、島で伐木し魚を獲れと「泥棒」許可を出したのだ。その過程で、独島は日本の船が自由に出入りする「鬱陵島搾取の前進基地」になった。

イ・スグァンの芝峰類説(チブンユソル)にも壬辰倭乱(文禄の役)後に収奪される記録が出てくる。

新羅(シルラ)智証王(チジュンワン)時の512年以降、ずっとわれわれの領土だった独島に対する日本の欲望はこのように執ようだった。今日では駐韓日本大使がソウルの真ん中で「独島は日本の領土」と、記者会見まで行っている。にもかかわらず政府の「独島外交」は頼りなく見える。「国際司法裁判所へ行ってはならない」として葛藤拡散を防ぐのに汲々としている。こうした微温的な態度がむしろ、韓国領・独島に対する国際的疑心を招かないか心配だ。

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