初代統監の伊藤博文は1909年、昌慶宮(チャンギョングン)の名前を昌慶苑(チャンギョンウォン)に改めた。 国を奪われた王朝の宮廷に私たちが並んで入ると、張禧嬪(チャン・ヒビン)が死薬を受け、思悼世子が米櫃に閉じ込められた昌慶宮の過去の歴史は動物の鳴き声の中に埋もれた。 日本を象徴する数千本の桜もあちこちに植えられた。 70年代まで「昌慶苑の夜の花見」は一日20万人が集まるほど大きな祭りだった。 83年に昌慶苑はまた昌慶宮となり、桜は運び出された。 しかし鎮海(チンヘ)軍港祭からソウル汝矣島(ヨウィド)輪中路(ユンジュンロ)桜祭りまで花見客があふれる今日、花見は生活の中に溶け込んだ日帝の遺産になった。
「お互い愛し合っていれば愛だけで生きることを望んだように愛だけで死ぬのもよい/桜の花のように美しさの絶頂で一度にこの世のすべてのものが散ってもよい」。金河仁(キム・ハイン)が桜の花に例えた愛の礼賛は聞く者の心の琴を響かせる。 しかし日本軍国主義は、花が散る中を散策した30年代のモダンボーイとモダンガールの胸を愛でときめかせることはなかった。「貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校の庭に咲く/咲いた花なら散るのは覚悟/見事散りましょ国のため」。38年に出てきた日本軍歌「同期の桜」が歌う桜はもはや愛の詩語ではなかった。 落花の美学は帝国と日王のために喜んで死になさいと、犠牲をそそのかす夢幻の修辞に変わった。