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<イ・フンボム記者の時視各角>ヨーコが言わんとしたこと

2007.01.24 12:39
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ここのところどうして『~イヤギ』ばかり問題になるのか分からない。

 
ゲーム機器「パダイヤギ」の余震が続く中、『マシュマロイヤギ(マシュマロ物語)』(邦題:『成功する人のシンプルな法則』)が世の中を騒がせたかと思ったら、今度は『ヨーコイヤギ(ヨーコ物語)』(『竹の森遠く』)だ。

テーマも多様だ。自分も国も滅ぼす賭博の狂風に、良心を疑う代理翻訳、そして今度は民族主義感情の争いだ。小説中、日帝敗亡後、祖国に帰ろうとする日本女性を韓国人たちが性的暴行する場面が韓国人読者の怒りに触れたという。

そこで雀は精米所に寄らずに本屋に飛んだ。2、3時間で読みきったが、最後のページをめくるまで、どうして問題になったのかわからなかった。むしろ悲しい場面に鼻の先がじいんと熱くなったほどだ。無性に疑問がわく。どうしてだ? 憤慨しなければならないらしいが…。

『ヨーコ物語』は日帝時代、北朝鮮地域に住んだ12歳の日本人少女が見た戦争の惨状を記録したものだ。1945年7月29日、ヨーコが母と姉と一緒に咸境道(ハムギョンド)ナナム(清津)を脱出することから始まる。前半部は辛うじて避難列車に乗り込み、3人の母娘がソウルを経て釜山(プサン)にたどり着くまでに経験した緊張と恐怖を、後半部は日本に到着した後、同胞たちから受けた蔑視と冷遇に屈せず、勝ち抜く過程を描いている。

問題の性的暴行シーンは2、3回出ては来るが、短く間接的に描写されていただけだった。「朝鮮人の男たち数人が女性を森に連れて行き『助けて』という日本語を聞いた」というふうだ。これらを読んで歴史を歪曲し、韓国人を侮辱すると憤慨するのは度が外れた被害意識の発露だというのが率直な心情だ。

戦争とそれがもたらした混乱と暴力、狂気に露出した女性たちが感じなければならなかった恐怖という方がもっと近いはずだ。当時、そんな恐れを感じない韓国人女性がいなかったわけはないだろう。この本は反韓ではなく反戦小説だ。赤ん坊の死骸を列車の外にほうり出し、寒さに勝とうと死んだ軍人の服を脱がせては着て、飢えに苦しみゴミ箱をあさって食べ物を確保するなど、戦争が強要した生存の苦痛が小説のテーマだ。

日本の出版社が出版を拒否したのも、戦争を起こした日本政府に対する強い批判からだ。ヨーコの母は入隊するという兄にこう叫ぶ。「我が国が戦争を起こそうと真珠湾を攻撃したのは決して立派なことではない。(…)夫や息子を失うより、むしろ我が国が負けるのを見る方がいいだろう」

自分を「ぼろ人形」と冷やかした女学校の級友たちも、著者であるヨーコカワシマ・ワトキンスさんは依然として許せない心の傷として残っている。むしろ韓国と韓国人に対してはあちこちで愛情が垣間見える。特に兄の命を救ってくれて、生みの親のように接してくれた韓国人家族に感謝する心があふれている。

今回の波紋の震源地は米国だ。いくら反戦メッセージがこめられていると言っても、この小説が米国で中学校教材として使われることは確かに無理があるようにみえる。アジア植民地の歴史を知らない米国の子供たちに、日本がともすれば戦争の被害者と映ることもあるからだ。在米韓国人たちの反発はその意味では正当だ。

しかしこの本が韓国でも出版されてはいけなかったという理由はない。我々はものを知らなすぎるのではないか。もう、日本は加害者、韓国は被害者という等式の民族主義的集団呪術から脱する時が来ているのだ。どうして日本とサッカーをすれば何が何でも勝たなければならず、日本がうまく行けば気分を悪くしなければならないのかということだ。問題は『ヨーコイヤギ』ではなくイデオロギーになった「民族」概念の方だ。

近代、我々の生存の萌芽を守ったのはまさに強い民族主義だったかもしれないが、今日の我々の課題は、19世紀以前には存在しなかった民族概念を守ることではなく、アジアの多くの国々と共存し、国民を超えて世界市民に発展することだ。

そのためには少々都合が悪い部分があっても、こんな小説は笑って読んで済ますぐらいにならなければならないということだ。

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