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「金正恩が金正男除去作戦を主導」 労働党出身の脱北者が証言(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2012.09.20 17:59
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--金正恩が金正男(キム・ジョンナム)を除去するウアム閣事件について話してほしい。 最近、北朝鮮改革放送(代表キム・スンチョル)で事件のてん末を話したというが、当時はどうだったか。 (※2010年6月、中央SUNDAYは金正男にインタビューし、脱北者の話を引用して「09年4月初め、平壌中区域のウアム閣に国家保衛部捜索チームが押し入り、数人の官吏を連行して調査した。 金正男の側近が誰かを知るためだった。 調査を受けて出てきた最側近の電話を受けた金正男は急いでシンガポールに逃避した」と報道した。金正男へのインタビュー内容を知らなかったチャン氏も同じ内容の証言をした)

「金正男が1カ月後に戻ってくるということを知り、金正恩が偽物の会合を作った。 金正男の側近が軍と保衛部の大佐級、党内の責任指導員、万景台(マンギョンデ)革命学院中間幹部など課長級30人ほどいたが、彼らが参加したと聞いた。 ウアム閣(チャンさんは元々の発音はウィアム閣と話した)で3日間、パーティーと会議をした。 金正男が来る前にいつもそこで集まり、提出報告書を作ったからだ。 彼らを国家保衛部打撃隊が襲撃し、ウアム閣の警備兵と2時間半ほど銃撃戦が繰り広げられた。 全員が捕まった」

 
--その話をいつ、誰から聞いたのか。

「2010年だ。 紋繍招待所の生活副官をする知人だけでなく、私が知る数人の課長も知っている話だった」

--当時の金正恩の補職は何か。

「国家保衛部と人民武力部、偵察総局作戦部を受け持っていた。 職責はなく、金正日の代理をしていた。 しかし内部では中将級といった。 北では軍事の称号より職務を高く見る。 何よりも金正恩は金正日の息子だ」

--その後、金正男はどうなったのか。

「1カ月後、金正男が戻ろうとしたが、戻れなかったと聞いた」

--金正恩はなぜそうしたのか。

「09年まで金正日は金正男に譲ろうと80%ほど考えていたと聞いた。 それで金正恩は『金正男が権力を覆して争奪しようというグループを作っている』という内容を提出すれば、父が疑うと考えたのだ。 当時、正男はずっと海外にいた。 正恩を軽視していた。 戻ってきても1カ月程度で、金を受け取ってまた出て行く。 金正日は『任せればこの国はどうなるだろうか』と心配になったはずだ。 しかし正恩はずっと北にいた。 金正日の現地指導にも同行した」

--事件後、父には報告されなかったのか。

「父が『正男はなど戻ってこないのか』と尋ねたと聞いた。 しかし金正恩が管理する保衛部が『金正男がパーティーをする組織でグループを結成し始めた』と報告した。 金正日は一言半句もなかった」

--金正恩にはどれほどの力があったのか。

「08年に人民武力部を任せられると、6カ月間で大佐級のうち50歳以上はすべて除隊させた。 また人民武力部の庁舎の中では『足取り』という歌を歌わせた(『足取り』は金正恩称賛歌)。 人民武力部内の規律を強化し、服のボタンを掛けて通わせた。 自分は私服を着て、人民武力部の機関を一人で歩き回った。 その頃はまだやせていた。 当時、『正恩は中将職級』という話をした。 金正日は病気になり始め、正恩に頼った。 実際に統治していたのと変わらない。 金正男が除去された後の09年からは新星将軍という歌が登場し、人民軍に普及し始めた。 それまではなかった。 その後2年間で太った」

--金正日は金正恩をかわいがっていたのか。

「金正恩は冗談を言い、父の機嫌をうまく取ったと聞いた。 かわいくて正恩には大声も出さなかったと聞いた。 金正日は北朝鮮で慈悲がないと見られている。 金日成は寛大だったが、金正恩は祖父に似ているいう。 度胸もよい」

--西欧に留学した金正恩は開放的ではないのか。

「西欧の雰囲気を経験したので先進的で、それで改革・開放をするだろうと多くの人が期待した。 しかし私の考えでは、西欧で生活をしただけに、開放すれば統治が難しく、権力が揺れるということをよく知っていると思う」

(中央SUNDAY第288号)


「金正恩が金正男除躋作戦を主導」 労働党出身の脱北者が証言(1)

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