「裁判は国民の名のもとで裁かれるべき」李容勲最高裁判所長

「裁判は国民の名のもとで裁かれるべき」李容勲最高裁判所長

2006年02月21日14時18分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  李容勲(イ・ヨンフン)大法院(最高裁判所)長は20日「裁判は国民大多数が納得することができる判断でなければならない」と述べた。

  この日、ソウル大法院庁舍で行われた新任法官任命式訓示を通じ、李大法院長は「韓国の法官に裁判権を授与した主体が国民であるという点を肝に銘じなければならない。裁判は国民の名のもとにするものであり、判事の名のもとでするものではない」と強調した。

  この大法院長のいわゆる「国民裁判論」主張は判事たちに世論を意識しながら裁判をせよという無言の圧力とも映ると波紋が広がっている。

  以下はこの大法院長の発言要約。

  「法官は裁判を通じて法と正義が何なのかを宣言しなければならない。法官の下す判断はいつも公正で普遍妥当的なものでなければならない。しかし結果が公正で普遍妥当的だとしても、それだけで立派な裁判だということはできない。人の熱い息づかいが感じられなければ、それは生命力のない死んだ判断だという点を肝に銘じなければならない。

  韓国の裁判所には、司法権独立の核心といえる法官の独立をきちんと守れなかった痛い過去がある。この時代のすべての法官は『法官の独立』を守るためにどんな犠牲も払う覚悟がなければならない。法官たちは自分の仕事部屋で孤独に作品を作る芸術家の心情で、裁判1つ1つに自分の魂を吹き込まなければならない。裁判をする本人まで感動する裁判は、司法部の姿を変えていくであろうし、国民から尊敬される司法部になるであろう」

  <ニュース分析>国民の信頼を高めようとする大法院長の意志強調…実体ない世論に判決が揺らぐことも

  「国民裁判論」は「国民に信頼される司法部」を作るというこの大法院長の意志を強調したものだ。司法不信を払拭し、国民の意に符合する裁判をするという意味だ。

  しかし法官の独立性と裁判権を侵害する要素があるという見解が学界と法曹界から出されている。また裁判が実体のない世論に影響を受けて政治的に利用されることがあり得るという指摘もある。

  この大法院長はこれまでに「斗山事件」判決に対して不満を表示し、厳格な処罰を注文、判事に「見えない圧力」を加えたと一部の反発を買っている。

  中道保守の「市民とともに歩む弁護士たち」(共同代表カン・フン、イ・ソクヨン)は「圧力性発言」を慎むよう促した。ホ・ヨン明智(ミョンジ)大法学部教授は「国民の90%がAだと言っても法官は憲法と法律、良心によってAではないと言えなければならない」とし「裁判は政治ではなく法官は国民の意だと無条件に従ってはいけない」と話している。

  憲法第103条は裁判権独立について「法官は憲法と法律に基づき、その良心に従い独立して審判する」と規定している。

  チェ・ソンホ中央(チュンアン)大法学部教授は政治的利用を警戒している。チェ教授は「世論はしきりに変わるだけでなく、操作も可能だから『国民大多数が納得できる判決』という発言は不適切だ」と指摘した。
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