주요 기사 바로가기

【中央時評】サムスン半導体も死にそうなときがあった

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.05.10 11:37
0
檀君以来半導体が最大の金の卵を産んでいる。サムスン電子は24年ぶりにインテルを抜き今年半導体1位企業に登板する見込みだ。中国の半導体崛起は尋常でないが、半導体のスーパー好況の見通しは依然として明るい。市場調査機関ICインサイツとガートナーは「スマートフォンとコンピュータのほかにも新規市場が急膨張している。特にクラウドと自動運転車は半導体を吸い込む新たなブラックホール」とした。半導体黄金時代だ。

最近の世界の時価総額はアップル、アルファベット(グーグル親会社)、マイクロソフト、アマゾン、フェイスブックの順で、IT企業の独擅場だ。このうちマイクロソフトとアマゾンはクラウドが新たな核心事業だ。ビッグデータ時代を迎えこれら企業がデータセンターを拡張しサーバー用半導体需要が50%以上増加している。ここに自動運転車とモノのインターネット特需も爆発中だ。自動運転車は走行中のデータ処理のために高性能コンピュータを1台ずつ装着したのも同然だ。

「金の卵を産むガチョウ」である半導体もかつて生死の岐路に立たされたことがあった。このほど朝鮮日報の安秉勲(アン・ビョンフン)元副社長の回顧録『それでも私はまた夢を見る』を見て30年ほど前の1枚の写真に視線が向いた。その下には「李秉チョル(イ・ビョンチョル)サムスングループ会長が主要日刊紙編集局長を新羅ホテルに招き、サムスンが推進する半導体産業に関し説明した。李会長と握手を交わす筆者。中央は洪ジン基(ホン・ジンギ)中央日報会長と李健熙(イ・ゴンヒ)副会長。1986年」という説明がある。当時安副社長は朝鮮日報編集局長だった。

 
振り返れば86年は重大な変曲点だった。サムスンの李秉チョル会長は83年2月に半導体への投資を決心したが現実は苛酷だった。84年から深い不況が押し寄せ4ドルだった64KのDRAMは85年半ばに30セントまで落ちた。サムスンは半導体を1個売れば1ドル40セントずつ損した。またサムスンは米テキサスインスツルメンツ(TI)に特許賠償金として8500万ドル、同年の営業利益の80%を取られた。86年は世界の半導体地殻変動の1年だった。TIが日本のNECに世界1位を奪われ、インテルは最初から白旗を揚げDRAM事業から撤退した。

86年の韓国の雰囲気はさらに険悪だった。半導体は「みにくいアヒルの子」だった。サムスンの半導体累積赤字が1300億ウォンに達すると、「サムスンは半導体のためにつぶれる」といううわさまで出回った。韓国政府は年初に自動車、建設重装備、発電設備などに対する主要産業合理化措置を予告した。半導体も一時は生死を分けるリストに載せられたが大詰めでどうにか対象から外された。したがってこの写真は86年2月と推定されるサムスンの半導体振興総力戦を撮ったも同然だ。サムスンの最高核心が総出動し「サムスンの半導体についてよく書いてほしい」としてメディアプレーを展開する場面である。77歳の李会長と70歳だった洪会長としては黄昏の最後の闘魂だった。洪会長はわずか5カ月後に他界し、李会長も翌年11月に死去した。サムスン半導体出身のシン・ヨンイン博士の『サムスンとインテル』(2009年)によると、2人が他界するとサムスンの幹部らは87年末に心を決め李健熙新会長に「半導体を断念しよう」と建議し激しく叱責されたという。幸いなことにサムスン半導体は88年から黒字に戻り金の卵を産み始めた。

経済は無菌の真空管の中で育てられるのではない。ヒット商品は激しい市場の中であらゆる競争に勝ち抜いて育つ。サムスンは半導体が黒字を出した88年にアナログ無線電話に参入した。だがモトローラに押され7年間赤字が続き、94年に「エニーコール」で状況をひっくり返した。企業はこのように「いつか必ず必要な事業」ならば長期間の赤字に耐えたりもする。こうしたものが底力であり競争力だ。

今回の大統領選挙で候補らは「第4次産業革命」をめぐって論争した。それぞれがその革命を主導できる適任者だと声を高めた。だが、1~3次のようにすべての産業革命は政府ではなく企業が主人公だ。企業は本能的にサメのようなものだ。サメはじっとしていれば水の中で窒息して死ぬ。企業もビジネスチャンスを捕まえるために絶えず動く。したがって第4次産業革命も政府が介入するよりは静かに企業を見守れば良い。政府が関与するならば、ドローンが自由に飛べ、幹細胞を自由に実験できるよう規制をなくしたり、教育を改革する側ではないかと考える。

韓国の新大統領は英国の自動車の失敗経験を参考にする必要がある。自動車は1801年に英国で初めて誕生した。だが馬車組合と馬夫のために作った「赤旗法」が1889年まで続いたのが問題だった。この法律により英国の自動車は赤旗を掲げた信号手の後を走らなければならず、馬と出会えば必ず止まらなければならなかった。19世紀の間、英国の自動車は歩くよりも遅かった。これに対しドイツ、フランス、米国は高速道路を作るなど自動車が自由に走れるようにした。このため英国の自動車専門家がみんな海外に流出し、英国の自動車産業が完璧に没落したのは当然だった。

イ・チョルホ論説主幹



関連記事

 

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP