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【キム・ジン記者の時視各角】朴正煕の血書

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.11.18 10:48
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朴正煕元大統領、生きていたら「親日人名辞典から私の名前を抜くな」

民族問題研究所が編さんした親日人名辞典をめぐり論難が起こっている。辞典には4389人が掲載されている。批判者たちは意図がいい加減だと攻撃する。朴正煕(パク・チョンヒ)大統領を含め、解放後の既得権勢力の親日行為を浮上させることで大韓民国のアイデンティティを毀損しようとしているというのだ。しかしたとえそんな意図があるとしても事前の価値を否定してはいけない。事前の瑕疵は本質的な存在価値とは違う問題だ。一部に虚偽があれば司法的責任を問えばよい。左派人物が抜けたら自ら権威を害したのだ。辞典を作った人々の性向がどうであれ、親北朝鮮派は差し置いて、どうして親日派だけ叩くのかという話も副次的なのだ。存在価値で見た場合、このような記録は必要だ。

 
もちろん多くの場合、親日の動機は理解するに値する。日本統治35年は長い歳月だった。合併初期だけでも国民的抵抗があったが、20年、30年になり事情は変わった。日帝は抵抗しにくい「世の中」になり、生きていくには順応しなければならなかった。それで判事もなって国防献金も出して日本統治をほめたたえたりもした。批判者はフランスを語るだろう。フランスはナチス賦役容疑者12万人を法廷に立てた。しかし両国は違う。ナチスは4年2カ月、日本統治は35年だった。ナチス占領が20年、30年につながったらフランスも断罪の様態が違ったはずだ。日本統治35年はそのようにどうしようもない歳月だった。

しかし理解と記録は違う。容赦はしないが忘れない、ということと同じだ。35年の間、皆が順従したら親日人名辞典は必要ないかもしれない。しかしそうではない人々もいた。少なくない人が家族を危険と貧乏の中に置き去りにして独立運動をしに満洲から上海に発った。これらの人々を忘れないためにも親日人名辞典はなければならない。そうでなければ世の中に正義はない。

代表的に朴正煕を辞典に入れるべきだろう。最近、彼が満洲軍官学校に入るために血書を送った事実が明らかになった。23歳の小学校教師、朴正煕は入学資格が19歳以下ということを分かっていて特恵を求めたのだ。彼は「日本人として恥ずかしくない精神と気迫で一死奉公の堅固たる決心」と書いた。朴正煕は日本陸軍士官学校まで出て満洲国少尉になる。満洲がどんな所か。抗日闘士の血と安重根の魂帛の地だ。そんな地に朴正煕は独立闘士ではなく日本傀儡国の将校として行った。それも血書を書いて…。血書があるにもかかわらず、彼が辞典から抜けたら、人々は精神的混乱を覚えるだろう。

しかし理解と記録が違うように、記録と評価も違わなければならない。歴史的評価は人生全体でされるものだ。一部分で親日行為があると言って人生全体が親日ではない。親日行為と親日人生は違う。親日行為があっても解放後、建国・反共守護・近代化、そして言論暢達に寄与したのなら彼は愛国者だ。親日行為があると言って安益泰(アン・イクテ)の愛国歌と抒情主義の詩が傷つくのではない。

ナポレオンの祖国コルシカはフランス植民地で、父は独立運動家だった。しかしナポレオンは植民母国フランスの心臓部に入って、将校となり皇帝となった。リー・クアンユーの祖国シンガポールは、イギリスの植民地だった。しかしリー・クアンユーは植民母国の心臓部に行って弁護士になった。そんなリー・クアンユーがシンガポールを救った。朴正煕も植民母国日本の心臓部に入った。彼が成した近代化祖国が、多くの部門で日本に追い付いた。ならば朴正煕は親日派か克日派か。

生きていたら朴正煕は親日人名辞典について何と言うだろうか。「私の名前を抜いてはいけない」と言うのではないか。朴正煕は日本と繋がった過去を隠そうとしなかった。1961年、大韓民国最高権力者という身分になったのにもかかわらず、堂々と日本陸軍士官学校の恩師に会おうとした。大統領になってからは満洲軍官学校同窓生を重用した。そんな朴正煕が、親日人名辞典を避けただろうか。巨木はじっとしているのに風だけが吹いている。

キム・ジン論説委員・政治専門記者


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