【時論】社会的責任感と市民覚醒が続かなければ=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.05.29 13:21
問題はこうした根本的質問に対する解答が簡単なはずがないというところにある。個人の自律を最高と考える人なら自己責任に徹底した個人から教育を受け労働する生活をしているのかをまず尋ねることができる。また、一方で他人に対する配慮で充満した共同体的徳性と社会的条件を尊重する人ならばどうだろうか? そうした人なら安全で自由な人生の踏み石になる教育、社会必須施設、福祉を国と社会が不十分に提供することで同僚市民同士が互いに安危と生活の質を配慮して生きる水準を維持できず生存の責任をひたすら個人にだけ転嫁してはいないのかを優先的に会議することができる。
この問題が二者択一の問題でないことは現代政治哲学の折衝的傾向が見せている。個人の自律を重視する立場でも否定できないのは構成員全員に基本的な生存の支えを提供できない国と社会はこれ以上共同体の安全を担保できないという点だ。だからといって公益の名前で共同体の資源を浪費する非効率的な公共システムもまた持続可能な生活を保障できない。残された課題は韓国社会が個人の自律性と国と社会の共同体的条件をどの水準で調和するように形成するのかの問題だ。
結局韓国社会がセウォル号沈没事故を契機に直面することになった根本的省察の結果である国と社会の価値指向は構成員全体の公論により左右されるほかない。ところで私たちが果たしてこうした難題を解決する政治的判断力と社会的感受性を持っているのか? 市民の政治参加を選挙法と政党法の鎖で縛っておく一方、死票を乱発する勝者独占の選挙制度を通じ選挙さえ過ぎれば市民を奴隷に転落させる政治システムが維持されているという指摘がある。ここに絶えず反政治・脱政治を助長する政治嫌悪文化の中で政治的自律性を持つ市民がどのように成長することができるだろうか?