【噴水台】大丈夫かと尋ねないで=韓国

【噴水台】大丈夫かと尋ねないで=韓国

2014年06月24日13時49分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  「大丈夫か、元気を出して、ありがとうなどと何も話さず、何も尋ねないでほしい。かわいそう、気の毒だという視線、特別な視線で見ないでほしい」。

  週末にオンラインコミュニティーに公開された檀園高の生徒の手紙を読んだ。「私たちは檀園高2年の生徒です」と始めるこの文は、学校付近の研修院で生活し、25日に学校に戻るセウォル号の生存生徒が、周辺の商店街やバスに配布しようと書いた文だという。セウォル号の事故から2カ月、救助された子どもたちは「涙を流しながらも大笑いすることもあり、突然憂うつになってもすぐに笑ったりもします」と書いた。だから「もし町中で笑って、騒いで、いたずらをする姿を見ても、あまりおかしく思わないでほしい」としながら。

  温かい関心が必要な時だと思いがちだが、子どもたちがつらい思いをするのは行き過ぎた関心だ。制服、2年の名札、運動服など檀園高の生徒と知られることも嫌で、人々がそれを知ったかぶりをするのも嫌だという。「映画館で学生証を見せたことがあったが、緊張した。あたかも見物されるような感じがした」という言葉もあった。「記者が周辺にいないことを望む」という思いとともに重く告白する。「笑いたい時もあるが、その姿を見て誤解されるのではと思うと笑えない」。

  大丈夫かという言葉、元気を出してという言葉、ありがとうという言葉、すべて善意から出てくる慰めであることは分かる。しかし絶望したことがある人なら分かるだろう。よい言葉の刃にも深く傷つく場合があるということを。セウォル号の生存生徒の心と比べるのは難しいが、「就職はうまくいっているか」「早く結婚しないと」「もう少し頑張ってみろ」など、特別な日に交わされる言葉にも、私たちは心が傷ついたりする。延世大のソ・ウングク教授は著書で、韓国人の幸福度が低い理由を他人を過度に意識させる文化のためだと説明した。「誰かが自分を見て評価するという視線が感じられれば、人間は本能的にもっと緊張し、委縮する」ということだ。

  檀園高の生徒が大人の鈍感な善意に為す術なく傷つくのではなく、「このようにしてほしい」と堂々と話してくれたのは本当に幸いだ。子どもたちが訴えるように、セウォル号事故を忘れてはならないが、生存者の生徒には無関心という容易でない配慮をするべき時間ではないだろうか。空気が遮断された湿潤バンドの中で傷が粘液を薬として徐々に治っていくように、子どもたちが内面の混乱と悲しみを整理して「平凡な高校2年生」として戻ってくることができるように。

  イ・ヨンヒ文化スポーツ部門記者
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