【時論】社会的責任感と市民覚醒が続かなければ=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.05.29 13:19
セウォル号沈没事故は圧縮成長の罠にはまった韓国社会の自画像だ。花のように美しい命をあのように空しく水葬しても、今後私たちの暮らしがどれだけ安全で自由なのか自信を持ちにくい。無謀な船員を“殺人者”として断罪し、お金に目がくらんで命を見捨てた一部企業家と、癒着を追及するだけで足らず海洋警察を解体し政府組織を改編するなど国家改造に乗り出すと騒がしいが、胸にこびりついたこのむなしさをどうすることもできないのはなぜだろうか?
このもどかしさはこれまでいつしか私たちを不便にしたが努めて目をそらそうとしていた真実と対面することになったためかもしれない。圧倒的に世界最高である自殺率や世界最低である出生率などの統計を聞くたびに漠然と感じた不安感とセウォル号事故がぶつかっている感じを受ける。無能な国と自身の権利実現には執拗だが共同体的生活に対する配慮は惜しむ荒廃した社会が結合した時、人間の尊厳の基礎である生命すらも軽い統計の対象になってしまう社会という考えもしてみる。こうしたさびしい社会で個人が耐えなければならない責任の重さはどの程度でなければならないだろうか?