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【コラム】自らおとしめる「日帝残滓」の言葉、使わなければならないのか=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.04.08 14:24
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もうこれ以上、高麗葬という言葉を使うのをやめよう。

両親を仁川(インチョン)空港に捨てた子供がいて、ターミナルに捨てた子供もいて、両親を殺した者もいる。彼らはただ、ひどい子供たちである。そんな子供たちは過去にもいたし、今日もいて、今後もずっといるだろう。いや、そんな子供たちは外国にははるかに多い。

 
罪を判断する時に確実な証拠がなければ無罪にするものなのに、まして証拠もない高麗葬を事実だと言うことはできない。私たちの先祖の気を絶ち切ろうと山頂のあちこちに打ち込んだ太い鉄パイプや高麗葬も、全てみな日帝の残滓だ。

日帝勅令により皇国臣民の国と民から始まった「国民学校」という名称を小学校に変えたように、高麗葬も別の名称が必要なのではないか。

「古墳を俗っぽく言う言葉」だとか「高麗とは関係のないある説話」だと言い張ろうが、関係ない。その話を聞いた時に高麗という国が浮かび、また老いた両親を山に連れて行って捨てる場面が思い浮かぶならば、その言葉はこれ以上使ってはいけないということだ。

孝心この上なかった高麗時代の私たちの先祖に、これ以上恥をかかせるのをやめよう。来年から日本のすべての小学生が独島(ドクト、日本名・竹島)が日本の領土だと書いている教科書で授業を受けることになるという。未来の日本の主役になる幼い子供たちにわい曲された歴史認識を注入しようとする彼ら。

私たちは今、何をしているのか。彼らが私たちをおとしめようと作った言葉を、誰も彼もが関係なく堂々と使っているのだ。

オム・ウルスン 文化未来イフ代表


【コラム】自らお욂しめる「日帝残滓」の言葉、使わなければならないのか=韓国(1)

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