주요 기사 바로가기

【噴水台】 ハンセン人

2005.10.28 21:13
0



「太陽と空の色が/らい病患者は恨めしく/麦畑に月が浮かべば/子供ひとり食べて/花のように赤い泣き声で一晩中泣いた」未堂・徐廷柱(ソ・ジョンジュ、1915-2000年)詩人が36年に発表した「らい病患者」は、ハンセン人に対する社会的偏見と彼らの哀歓をともに表した。

 
このハンセン人らの痛みを象徴する場所が全羅南道高興郡(チョンラナムド・コフングン)の小鹿島(ソロクト)だ。 小鹿に似ているという理由で付けられた名前だ。

植民地時代の朝鮮総督府は1916年、伝染病を遮断するという名目で「小鹿島慈恵病院」を設立し、ハンセン病患者99人をこの島に隔離収容した。 当時はまだハンセン病は天刑・らい病と呼ばれ、警戒と差別の対象だった。 患者らはレンガ工場で強制労役と搾取に苦しめられた。 断種(不妊)や生体実験も行われた。 植民地時代末期、日本人病院長は6000人余の患者を奴隷のように酷使しながら自分の銅像を作らせ、参拝させるという蛮行もあった。

解放後50-60年代、小鹿島では島を職員地帯と病舎地帯に分け、2キロの鉄条網を設置して「境界線」を作った。 患者の子が生まれれば職員地帯に隔離させ、親と子供はこの境界線道路の両側に立って月に1回のみ対面することが許された。 伝染を憂慮して子供は風上で、父母は風下でお互いの顔を眺めあった。 そしてまた生き別れに入る。 患者らはこの場所を「愁嘆場(嘆息の場所)」と呼んだという。

最近では小鹿島は観光地になり、ハンセン病は簡単な投薬で伝染を遮断できる病気になった。 現在の国立小鹿島病院には700人余のハンセン人が保護されている。 彼らの平均年齢は73歳で、ほとんどが植民地支配を知っている。

日本の東京地裁が最近、小鹿島ハンセン人117人の被害補償請求を棄却した。 ハンセン人らは必ずしもお金の補償を受けようと訴訟を起こしたわけではないはずだ。 その間、ハンセン人が体験した差別と冷遇に対し、社会に関心を喚起させようとしたのかもしれない。

終生ハンセン病の苦痛に悩まされて亡くなった詩人、韓何雲(1920-75年)の「仏法僧」は、だから胸に響く。 「私は死んで仏法僧になり/青い空、青い野原を飛び回りながら/青い歌、青い鳴き声で暮らす…」

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    【噴水台】 ハンセン人

    2005.10.28 21:13
    뉴스 메뉴 보기
    TOP