【コラム】リーダーの資格=韓国

【コラム】リーダーの資格=韓国

2017年02月16日16時24分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  古代ギリシャ・アテネの指導者ペリクレスは当時、儀礼としても自身の銅像を一つも建てなかった。数多くの功績を積むたびに周囲から相次ぎ勧められたが、彼の答えは常に同じだった。後日、「なぜ、このような人の銅像なんかを建てたのか」という言葉の代わりに「なぜ、このように偉い方の銅像が全くないのか」という話が聞きたいと。代わりに、彼はアクロポリスに神殿や神々の銅像を建て、2400年が過ぎた今でも歴史の宝庫として残っている。だからといって彼の業績が葬られたわけではない。かえって、彼は民主主義の花を咲かせた人物として称えられ、後世に彫刻された彼の銅像は大英博物館など世界の所々に保存されている。

  世の中にはどこでもリーダーが存在するものだ。国家や政党の指導者はもちろん、職場には社長と部長がおり、例えば頼母子講には講元が、同窓会にも同窓会長が集いを率いる。組織の興亡盛衰はリーダーがどのような力を発揮し、構成員をどのように一つにするかにかかっているといっても過言ではない。

  だが、リーダーといっても、一様に同じリーダーではない。リーダーはリーダーらしく振る舞ってこそ、尊敬されるものだ。何よりリーダーが私益を優先する瞬間、組織は崩れやすい。大統領が裏金を握りしめるように、頼母子講の講元が集めたお金を取って夜逃げして大騷ぎしたのが一度や二度ではない。リーダーは、能力は足りなく我が強いだけでも困る。筋が通らない上司の指示に部下職員が何も言えずに悩む組織は、重病を病むことになる。そのような中間リーダーをコントロールして選別できないのも、その上のリーダーの責任だ。

  より根本的な問題は、リーダーに対する韓国社会の概念だ。垂直的・階層的軍事文化に慣れているため、「リーダーは、すなわち支配者」という間違った認識が根差している。リーダーになるというのは、すなわち権力を握るということ、という誤った幻想がそれだ。そのため、手段や方法を問わず、リーダーになることに命をかけるわけだ。

  もちろん、支配と被支配は世の中で避けられない現実だ。それでも、支配の正当性が自ずと与えられるわけではない。派手な美辞麗句で言葉だけを並べたり、口を堅く閉じたままレーザーを撃ったりしたからといって権威が与えられるわけではない。人の面前では従うかもしれないが、自主的な服従は考えられない。自身が自身を立てれば、人が自身を立てる機会を奪うだけだ。ペリクレスはこの真理をかつてから見抜いたわけだ。

  権限は分かち合うほど、大きくなる。ハンナ・アーレントも「権力と強制力は相容れないものだ。片方が絶対的である時、もう片方は消えてしまう」とした。権力が空間を支配することはできるかもしれないが、時間を支配することはできない。21世紀のリーダーシップは、支配と強制の代わりに、共感と調整という新しいリーダーの資格が求められている。マンチェスター・ユナイテッドの伝説的なアレックス・ファーガソン監督も『人を動かす(Leading)』で選手たちの心に恐怖よりは尊重を与えようとしたと、彼のリーダーシップの秘訣を説明した。歩調を合わせて一歩ずつ一緒に前へ進む指導者、それによって心からの尊敬心を育む指導者。われわれも今やそのようなリーダーを迎える時になった。

  パク・シンホン中央SUNDAY次長
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