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<慰安婦生存者13人証言>「工場に行くといったが中国慰安所に、60年間帰れず」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.17 10:31
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翌年、妻を亡くした男性と結婚した朴さんはそれなりの暮らしをしながら3人の子どもを産んだ。しかし不幸は終わらなかった。

「しばらくはよかったが、夫が目が見えないと言い出し、手術を何度か受けて亡くなった。すると食べるものがなく、私は村の協同農場で働いたが、3年後に長男の健康が悪化し、10年間病気に苦しんで死んだ。病院費もなく借金も増えて…。次男が本当に苦労したが、どうすることもできず…」。

 
故郷を離れて60年ぶりの2001年、朴さんは家族を探すことにした。「次男が『なぜ母さんは家族を探さないのか』と言った。それで私は胸が痛み、放送局で私が話さずに生きてきた(慰安婦としての)苦痛について話し、家族を探してほしいと言った」

韓国に戻り、密陽で暮らしていた弟に会った。朴さんが死亡したことになっていた戸籍を回復し、韓国国籍も取得した。それから14年間、「ナヌムの家」で暮らしている。朴さんに最もつらかったことを尋ねた。

「中国にいる子どもが遠くて来られず残念だ。会いたい。中国に連れて行かれたのは私の運がなくてそうだったが、子どもを飢えさせたのは私の責任だから、それを考えればとにかく申し訳なく…」。

涙を拭く朴さんの手に金の指輪があった。朴さんは「息子が私の誕生日にプレゼントしてくれたものだが、子どもに会いたいと思うたびに見ている」とうれしそうに語った。子どもの話をしながら泣いて笑う朴さんの後ろに、明るく笑う姿の孫の写真が見えた。


<慰安婦生存者13人証言>「工場に行くといったが中国慰安所に、60年間帰れず」(1)

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    2015.09.17 10:31
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    息子から誕生日プレゼントにもらった指輪をしている朴玉善さんの手。
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