주요 기사 바로가기

<慰安婦生存者13人証言>「工場に行くといったが中国慰安所に、60年間帰れず」(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.09.17 10:31
0
「私の苦労もそうだが、子どもを飢えさせたのが一番つらかった。仕事から帰ってくればうずくまっていて…。本当に苦労して育てたのを何度も思い出す」。

先月、京畿道広州(クァンジュ)の「ナヌムの家」で会った朴玉善(パク・オクソン)さん(91)は子どものことを思い出しながら涙を拭った。朴さんは子どもを食べさせるために働いたが、生涯それをまともにできなかったという罪悪感を抱えて暮らしてきたとも語った。

 
慶尚南道密陽(ミリャン)が故郷の朴さんは14歳で父を亡くし、17歳の1941年に慰安婦として連れて行かれた。兄が他人の保証人になり、家を失った時だった。家族が茫然自失している時、朴さんは「針仕事の工場で人を求めている」という話を聞いた。「ある友人が『工場で働く人を探しているから行ってみよう』というので行った。みんなが行くので私もついて行った」。朴さんは何も持たず家を出て、そのまま中国に連れて行かれた。「駅前に行ったが、怖くなって『私は行かない』といったが、聞いてもらえなかった。みんな怖がっていた…」。

列車とトラックに乗って朴さんが到着した「工場」は中国黒龍江省の軍部隊だった。「そこが何をするところか分からず家に帰るというと、誰かが『これが工場だ』といいながら蹴って…」。このように朴さんは4年間、慰安所で生活した。

「当時の腰の病気のために今も腰がどうにもならない。当時は朝鮮の女性が集まってよく泣いていた。慰安所の主に殴られたことを思い出すと今でもぞっとする…」。

45年の解放で慰安婦生活は終わったが、朴さんは黒龍江省を抜け出せなかった。「解放されると日本人がいなくなり、ソ連の軍隊が来た。友達と一緒に避難しようと車に乗ったが、前の車に砲弾が落ち、2人が死んだ。車から飛び降りてひたすら走り、そこで友達と別れてみんなどこに行ったのか分からない」。

爆撃を避けて山の中をさまよった朴さんは近くの村に定着した。近所の老夫婦が「いま朝鮮に行っても生活しにくいからここで暮らすのがよい」と勧めた。黒龍江省穆リョウ、ここが朴さんの第2の故郷になった。このため解放後に国籍も得られなかった。


<慰安婦生存者13人証言>「工場に行くといったꪂ中国慰安所に、60年間帰れず」(2)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    <慰安婦生存者13人証言>「工場に行くといったが中国慰安所に、60年間帰れず」(1)

    2015.09.17 10:31
    뉴스 메뉴 보기
    朴玉善(パク・オクソン)さんは「60年過ぎたが、故国に帰ったのは今考えてもよかった」と語った。
    TOP