주요 기사 바로가기

【中央時評】カカオトーク、その「くすくす笑い」の神聖さについて

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.03.29 15:04
0
後世の歴史家はおそらく我々が生きている時代を個人が網目のようにリアルタイムで繋がり合った初めての時代だと記録するだろう。加えて、今日の韓国社会は世界的にもその類例がないほど全国民がカカオトーク(スマホのメッセンジャー・アプリ)という特定サービスを通じてリアルタイムでお互いに会話する場所だったと記録されるだろう。個人が所属するグループチャットの数は数十、いや数百を数え、それらは家族や仕事や友人達と、時には知らない人達の無数の組み合わせで構成されている。振り返ってみれば、人類がこのように繋がっていたことはなく、このように避けられない疎通の飽和状態を生んだことはなかった。

その他のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)とは明確に区分されるカカオトークの決定的な魅力はそれが絶えず多重的主体としての自分を想起させるという点で、まるで曲芸をするかのように、ある役割から他の役割にスイッチを消したり点けたりするように切り替えることができ、切り替えなければならないという点だろう。一瞬で、休日にも業務指示する職場の上司から思春期の子供に戸惑う親に、純真な夫から世間の荒波にもまれ世渡り上手な職場の同僚に、私たちは極めて複雑で多様なペルソナを変奏せざるを得ない。

 
共存するペルソナがカカオトークを理解する1つ目のカギならば、このようなペルソナが同時に衝突する空間で必然的に作られる「くすくす笑い」こそカカオトーク成功の秘訣ではないのかと考える。あなたが厳かな会議場で深刻で事務的な表情を浮かべながらグループチャットで誰かと中身のない冗談を交わしたり、1カ月後の重要でない夕食の約束を取りつけたことがあるならば、このようなくすくす笑いとは何なのか、そしてそのくすくす笑いを共有することがどれほど大切な経験なのか分かるだろう。そのような意味で例外なく可愛らしくも突飛なカカオトークのスタンプが成功したのは偶然ではないだろう。毎月そのようなスタンプが22億個送信されるという。

しかし、このくすくす笑いの空間がひとえに明るいばかりではないという事実を私たちは最近になって徐々に知り、理解することになった。それは人々が普段抑えつけられてきた欲望が体面や道徳の抑制を突き破って溢れ出る空間であり、時には醜さや憎悪が、あるいは偏見と絶望が排泄される場所でもある。同じような好みと特徴と偏見を持った人々が集まり、自分たちの好みと特徴と偏見をさらに極端に育てていく場所だということも動かぬ事実だ。

そのような意味で最近新聞やテレビ番組をすっかり埋め尽くした若い男性芸能人達の明白な犯罪行為はある意味驚くべきことではないかもしれない。口にするのもはばかられるあらゆる違法行為が驚くべきことではないというのではなく、それが堂々とグループチャットで明確に鮮明に記録されていたという事実のことだ。それが驚くべきでない理由はグループチャットに蓄積されたあらゆる汚染物が私たちの文化のスナップショットのように堆積し、それらに対するあらゆる歪んだくすくす笑いがそれほど見慣れないものではないからだ。逆説的にもこのように歳月によって絶対に風化したり忘れられたりしないデジタル様式で記録されたチャットルームの内容は誰かの携帯電話に保存され、彼らの運命を決める厳重な証拠として活用されるだろう。私たちが目の当たりにした事件を通じて悟ったことがあるとすれば、カカオトークのくすくす笑いこそ重く厳かだという事実だ。

しかし、その過程で非常に当惑した、看過しがちな場面もあった。それは捜査過程で確保された被疑者の携帯電話に保存された複数のグループチャットで、おそらく「職場の仲間」同士の会話の場とも言える場所の内容まで世間に露呈したという事実だ。より具体的には、コメディアンのキム・ジュノ氏と俳優のチャ・テヒョン氏が海外で賭けゴルフをしたという内容が警察によって発表され、それが法律違反行為なのかについて判断が下される前にメディアによって報道され、彼らは各自の職場を辞めざるを得なかった。

ここで賭博を擁護しようとするわけでも、彼らの行為が「社会的に容認される水準」だから無罪だと主張しようとするわけでもない。ただ、私が言おうとしているのは警察が任意提出を受けた被疑者の電話から、当初の捜査目的とは全く関係のない追加的犯罪事実を明らかにすることがカカオトークのすべてのくすくす笑いをホコリを叩くように暴くより、はるかに真面目で繊細な過程でなければならないということだ。被疑事実を初期に公表し、これをメディアが几帳面に受けて「報じたこと」はささいなおまけに過ぎなかった。

更には、私はカカオトークの「くすくす笑い」が持つあらゆる醜悪で暗い属性にもかかわらず、そこに何らかの神聖さも宿っていると言いたい。耐え難い謹厳で真摯な毎日の日常に、それでも私たちが耐えられるのは、大半の場合私たちの存在の逆説的多様性が表わす中身のない冗談やくすくす笑いのためだ。そのような私的空間を国家が法律と道徳の尺度で明るく照らし、滅菌することを私は望まない。犯罪者を探し出し厳罰することが国家の任務であるのと同じくらい個人が疎通し笑っておしゃべりし、くだらない振る舞いをする権利を保障することも国家の任務だからだ。

パク・ウォンホ/ソウル大学政治外交学部教授

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP