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明仁天皇「戦争できる日本」に座を投げ打ち警告(3)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.05.08 10:06
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◇伊藤博文、天皇の抵抗懸念し譲位規定削除

興味深いのは明仁天皇をはじめとする皇室が日本の歴史上最後に譲位した第119代光格天皇(1771~1840年、在位1780~1817年)の直系子孫という事実だ。光格天皇は8親等である第118代後桃園天皇(1758~1779、在位1771~1779)が跡継ぎのないまま死去すると後を受け継ぎ、いまからちょうど200年前の1817年に息子の仁孝天皇(1800~1846、在位1817~1846)に譲位して上皇になった。これまでの日本の歴史上最後の譲位だ。第120代仁孝天皇の後、第121代孝明天皇(1831~1867、在位1846~1867)、第122代明治天皇(1852~1912、在位1867~1912)、第123代大正天皇(1879~1926、在位1912~1926)、第124代昭和天皇(1901~1989、在位1926~1989)を経て明仁天皇につながった。

 
日本の歴史で譲位は珍しくなかった。125代にわたる過去の天皇のうち譲位したケースは59件に上る。皇位継承を順調にするため権力が強い時に直系子孫に譲位する場合が多かった。子どもたちに譲った後も自身は上皇の座に就き摂政を務め実権を持ち続けることができる。力及ばず強制的に譲位させられる場合もあった。実勢権力に不満を示すために座を退いたこともあった。仏教伝来後には在位中に死去すれば座を汚し子孫に不吉と考え譲位する場合も少なくなかった。譲位後に太上天皇、すなわち上皇という尊号を受け権力を行使するのが日常的だった。上皇が髪をそり仏門に帰依すれば法皇と呼ばれた。権力行使は法皇になっても中断しなかった。

◇譲位、高度な政治行為であり権力闘争手段

徳川幕府時代(1603~1868)の天皇は相次いで譲位した。第108代後水尾天皇(1596~1680、在位1611~1629)は幕府の将軍に押され権威に傷を負うとすぐ譲位した。幕府に不満を示そうとする意図だったとの分析もある。彼は譲位後にも上皇(後に出家し法皇)として朝廷の権力を振るった。妻が第2代将軍徳川秀忠の娘だったため幕府も止められなかった。後水尾天皇が死去した後も跡継ぎがいないまま死去した場合を除くとすべて譲位され上皇や法皇になった。

日本の譲位の歴史は始まりから権力闘争と関連が深い。1370年ほど前の645年に女性天皇である第35代皇極天皇(594~661、在位642~645)が弟である第36代孝徳天皇(596~654、在位645~654)に座を譲ったのが日本の歴史上初めての譲位だ。皇極天皇は夫であり叔父である第34代舒明天皇(593~641、在位629~641)が死去して即位したが、野心あふれる息子の中大兄皇子が権臣らと権力闘争を行い改革を推進するとすぐに実権を与え一線から退いた。

日本では譲位が高度な政治活動にならざるをえないという事実を歴史はよく示している。明仁天皇の譲位は民主主義時代の日本の君主の役割をよく示す事例でもある。

チェ・インテク論説委員


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