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映画『金子文子と朴烈』の金子文子を追慕しようと韓国・聞慶に集まった日本人たち

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.07.23 16:19
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2017年に公開された映画『金子文子と朴烈』(イ・ジュンイク監督)は主人公の朴烈(パク・ヨル/イ・ジェフン扮)よりも金子文子(チェ・ヒソ扮)のことを記憶している人のほうが多い。朝鮮人・朴烈(1902~1974)の懐に抱かれて明るく笑う日本人の金子文子(1903~1926)。金子文子を演じた女優チェ・ヒソの印象的な日本語アクセントが混ざった韓国語発音。そして獄中で死刑宣告を受ける過程でも笑いを失わない堂々とした姿は多くの人々の記憶に残っている。その金子文子の墓は慶尚北道聞慶(キョンサンブクド・ムンギョン)の朴烈義士記念館の中にある。

23日午前、聞慶市麻城面(マソンミョン)朴烈義士記念館。60~70代の日本人10人余りが姿を見せた。彼らは記念館の中にある墓地の前に近付いて頭を下げた。準備してきた線香も焚いた。日本の金子文子研究会の小沢龍一理事など研究会のメンバーとその関係者だ。映画に登場した朴烈(1902~1974)義士の夫人である金子文子の墓を訪れて追悼した。

 
金子文子の墓碑には「(裁判で)いささかの動揺もなく天皇有害論、弱小民族解放、韓国独立の正当性、人間の自由を始終如一に主張した。死刑宣告を受けると女史は万歳を叫んだ」と刻まれている。

7月23日は金子文子が獄死した日だ。金子文子は1923年に朴烈義士とともに日本皇太子の結婚式で爆弾テロを謀議したという「大逆罪」で起訴された。幼少時代に不遇な環境で育った金子文子は植民地・韓国人の境遇に共感し、パク・ムンジャというペンネームで活動し、朴烈と共に日本帝国主義などに抵抗した。法廷で金子文子は「朝鮮の独立運動を考える時、他人事と思えぬほどの感激が胸に湧いた」と証言した。

1926年3月23日、朴烈と獄中結婚した2日後、死刑宣告を受けた。無期懲役に減刑されたが結局獄死した。金子文子は夫の朴烈義士の故郷である聞慶に安置された。朴烈義士記念館側は2003年、現在の記念館の中に女史墓を移葬した。その後、韓国と日本で隔年で追悼式を毎年開いている。墓のある聞慶と金子文子の実家があった山梨県でだ。

追悼式に参加した研究会のメンバーは建国勲章を日本から持ってきて朴烈義士記念館側に寄贈した。昨年11月、政府が日帝に抵抗した功を賛えて金子文子に追叙した建国勲章(愛国章)だ。建国勲章を受章した日本人としては、多くの独立烈士を弁護した布施辰治(2004年独立有功者褒賞)に続き2人目だ。勲章はこれまで日本の金子文子の親戚が保管してきた。聞慶市関係者は「冷え込んだ韓日関係のためなのか、過去に独立運動に命を捧げて参加した日本人女性の話が新しく聞こえる」とした。

日本で独立運動にまい進した朴烈義士は22年2カ月間、獄苦を強いられた。朴烈義士は独立闘士、アナーキスト(無政府主義者)、不逞鮮人(不良な朝鮮人)などと呼ばれた。ところが朴烈自身は自分のことを「犬ころ」と呼んだという。1922年に日本留学生が出した雑誌『朝鮮青年』に掲載された『犬ころ』を通じてだ。

「私は犬ころである/空を見てほえる/月を見てほえる/しがない私は犬ころである/位の高い両班(ヤンバン)の股から/熱いものがこぼれ落ちて/私の体を濡らせば/私も彼の足に/勢いよく熱い小便を垂れる/私は犬ころである」。この詩は権力に対する朴烈義士の抵抗精神をよく表現している。

朴烈と共に日帝に対抗した金子文子も彼の詩を呼んで彼と共にしたことが知られている。金子文子は詩を読んで「私が探していた人、私がしたかったこと、それはまちがいなくその人の中にある。その人こそ私が探していた人だ」と話したという。

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    映画『金子文子と朴烈』の金子文子を追慕しようと韓国・聞慶に集まった日本人たち

    2019.07.23 16:19
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    23日、慶尚北道聞慶で金子文子の追悼式が開かれた。[写真 朴烈義士記念館]
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