日本、露バルチック艦隊に圧勝…大韓帝国の命運尽きる

日本、露バルチック艦隊に圧勝…大韓帝国の命運尽きる

2009年05月27日11時32分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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  1905年5月27日、7カ月にわたった長い航海で疲れきったロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に姿を見せた。

  日本の連合艦隊の戦力はロシアよりはるかに優越だった。射撃の速度と命中率は3倍も優位であり、砲弾の破壊力も2倍も上回った。東郷平八郎連合艦隊司令長官は同日、海戦中に祝杯を上げるほど一方的な勝利を収めた。敗走したたロシアの艦隊は翌日、独島(トクト、日本名・竹島)沖で降参した。

  日露戦争はそのとき、すでに日本の勝利が固まった。母港に凱旋(がいせん)する連合艦隊(写真)の姿から、帝国の班列(はんれつ)にあがった日本の威勢が感じられる。西欧列強の侵攻に苦しめられた中国の孫文とインドのネールをはじめ「弱小民族」のリーダーらは、当代最強の陸軍戦力を保有したロシアが、小さな島国に膝を屈したという力説に熱狂した。

  人種主義の立場から世の中を見ていた韓国の有識者も例外ではなかった。日清戦争以降、韓国の大半の有識者は人種主義的な観点から、黄人種(モンゴロイド)全体を同胞と見なす「人種主義的なアジア連帯論」に傾いていた。1907年にハーグで殉国した李儁(イ・ジュン)烈士や沿海州で民族運動を主導したチョン・ソンマンすらも、日露戦争の開戦初期に日本軍の負傷兵を治療するための赤十字社を作ろうとし、投獄されたほどだった。

  しかし日本の勝利が表面化し、亡国の暗い影が差しはじめると、それらは人種主義に基づく東洋主義が掘っておいたワナに気付いた。開化派の尹致昊(ユン・チホ)は二律背反(アンチノミー)する妙な感情を6月2日付の日記で吐露した。

  「モンゴロイドとして韓国は-より正確に話せば私は-日本の光栄たる勝利を誇らしく思う。日本はモンゴロイドの名誉をかばい、守った。しかし韓国人としての私は、日本の相次いだ勝利を喜ぶ特別な理由がない。すべての勝利は韓国独立の棺にさした釘である」。

  9月5日にルーズベルト米大統領の仲介で、ポーツマスで講和条約が結ばれた。日露戦争中に結ばれた桂タフト協定と第2次日英同盟、日露講和条約。日本は韓国への支配を、英国と米国、そしてロシアの3国から認められた。英国と米国は自国と利害をともにする海洋勢力の日本が、韓国をのみ込むことに反対しなかった。

  1905年11月に外交権を強制的に奪っていった乙巳保護条約が締結された。大韓帝国(1897年10月12日から1910年8月29日までの朝鮮の国名)の頭のてっぺんを狙う「ダモクレスの剣(Sword of Damocles)」をとどめていた紐は切れてしまった。尹致昊が予見した通り、災いは現実化した。

  日ロ両国間のパワーのバランスの上で、危うい綱渡りをし延命していた大韓帝国は、日本の保護国に転じてしまった。19世紀末の「西勢東漸」の時期、20世紀半ばの冷戦体制の形成期、そして北朝鮮の繰り返される核実験で東アジアの情勢が揺れ動く今日の「ポスト脱冷戦時代」に至るまで、長期にわたって持続する韓半島の地政学的な特徴は、周辺諸国の利害が分かれる勢力の激戦地だという点だ。

  本音を隠し、さらなる東アジアの覇者を夢見る日本は今自主を語らない。東北工程(訳注:中国東北部の歴史研究を目的とする中国の国家プロジェクト。高句麗と渤海を中国史の地方政権とした扱いに、韓国が抗議し、韓中間の外交問題に発展した)が象徴するように、中国も「脣亡歯寒」(密接な関係にあるものの一方が滅びると、片方も危うくなること)の悪夢を再度見ようとしない。

  一世紀前に利害をめぐり、超大国が分列していた時代、韓国は他国の力に頼って生き残ろうとし、国を奪われてしまった。外国の勢力に頼り命脈を維持しようとした朝鮮(チョソン、1392-1910)王朝は歴史の裏街道に消えた。帝国と利害と行動をともにする「帝国寄り」は従属を抱くことになる。

  しかし「妥協イコール従属」になり、「抵抗は自主」という素朴な等式からははなれるべきではなかろうか。一世紀前の失敗した歴史が前途を照らす灯台に迫る今日。旧韓末(朝鮮末期)の痛ましい記憶を反芻(はんすう)し、切実さから、韓国の活路を開いてくれるリーダーシップを渇望する。
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