【コラム】海洋主権を守った李承晩の平和線
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.01.30 16:46
今月18日は、李承晩(イ・スンマン)元大統領が「隣接海洋の主権に関する大統領宣言」、いわゆる平和線を宣布して60年となる日だった。 韓国戦争(1950-53)で余裕がなかった大韓民国の水産資源をさらって行った日本に対して海洋主権戦争を宣布した日だ。
平和線を宣布した1952年1月は、未来がどうなるのか一寸先も予想できない時代だった。 内外で難しかった時代だったが、李承晩大統領はタイミングを逃さずに「李承晩ライン」を宣布した。 ここでのタイミングとは、1952年初めから稼働する「サンフランシスコ講和条約」をいう。 この条約で日本は太平洋戦争敗戦国の地位を抜け出し、名実ともに世界の国家として生まれ変わる権利を回復することになる。
彼は国際政治学博士論文を準備しながら、独島(ドクト、日本名・竹島)はもちろん、対馬も本来は韓国の領土であることを知った。 日本の真珠湾攻撃の3、4カ月前に脱稿した「Japan inside out」で、彼は過去から伝えられてきた「韓国と日本の間の明確な海上境界」があると主張した。 それは対馬と壱岐を韓国の領土とする海洋境界線をいう。 李承晩大統領は執権3日後の1948年8月18日、日本に対馬の返還を要求した。 翌年1月8日の年頭記者会見で再び日本の対馬返還と壬辰倭乱(文禄・慶長の役)までの賠償を要求した。 日本が独島を自国の領土だと主張する本当の理由を李承晩大統領は看破していた。 「独島で劣勢になれば対馬も危険だ」という日本の危機意識を、李承晩大統領は見通していたのだ。