주요 기사 바로가기

【時論】安重根の「北東アジア平和論精神論」を振り返ってみよう(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.05.22 15:14
0
韓中日3カ国の関係と北東アジアの平和について悩む知識人の議論は、19世紀末前後から活発だった。清国の外交官・黄遵憲は『朝鮮策略』を通じて勢力バランスの秘策を提示した。日本の知識人・福沢諭吉は『脱亜論』を通じて日本が北東アジア国家ではなく西欧国家として振る舞うことを主張した。さらに韓国の独立活動家・安重根(アン・ジュングン)は『東洋平和論』を通じて北東アジアの平和維持論を展開した。

#1.1880年6月、駐日清国外交官の黄遵憲が東京を訪問した外交使節キム・ホンジプに渡した文書は朝鮮の対外政策についての助言だ。朝鮮策略は朝鮮の地政学を「天下の中央に位置する」としながら「アジアの要衝」と規定した。そして北東アジア最大の脅威をロシアの極東進出と南下政策だと分析した。朝鮮が最初のターゲットになる可能性が高いとみた。これに対する策として「親中・結日・連米」を勧めた。まず「中国との関係をさらに緊密にして」「両国のよしみが1つの家族同様であることを世界に知らしめること」を勧めた。また日本とは「小さな疑いを捨てて、大きな計画を図り」結盟することを勧めた。そして米国を「他人の領土をうらやましがらず、無理に他国の政事に干渉しない国」として積極的に修交することを勧めた。韓中日の3カ国と米国連合による対応策だ。清国の立場で見たロシア牽制策だ。日本の野心をあまりにも軽く見ていたのが“玉にきず”だ。しかし32歳の若者の国際情勢を見る目は広大だった。今見ても大変な洞察力でアプローチしている。

 
#2.それから5年後の1885年3月、福沢諭吉の「脱亜論」が出てきた。時事新報に載せた社説だ。慶応大学を設立した当時、日本最高の知識人だった福沢は隣国の中国や朝鮮を希望のない国々とみていた。「西洋文明の開化の流れに逆行して部屋に閉じこもっている」「数年以内に滅亡して分割される」とみた。そしてこのような「悪い友人の開明を待ってアジアを起こす時間はないので、その隊列から抜け出して西洋の文明国と共に進退を共にすべきだ」と主張した。当時、朝鮮は壬午軍乱(1882年)と甲申政変(1884年)が起き、保守派と開化派が争いながら情勢が混迷している時だ。清朝末の中国の事情も似ていた。脱亜論はその後、日本の帝国主義化となってあらわれた。アジアの新興強国になった日本は「悪い友人」である中国と朝鮮の植民地化に乗り出した。日本の「脱亜」という悲劇の始まりだった。


【時論】安重根の「北東アジア平和論精神論」を振り返ってみよう(2)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP