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【コラム】危機の記憶をすぐに忘れる韓国、20年過ぎても再確認し続ける日本

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.07.29 09:58
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世界的に見ても、韓国ほど情熱的な国も珍しい。私が3度も韓国に留学した理由でもある。韓国には日本では感じることのできない刺激的な魅力がある。ところがその情熱が不思議なほどすぐ冷めてしまい、忘れられるのがあまりにも残念だ。国民性のせいだろうか。

最近、日本で働いていた新聞社の先輩記者から、韓国IMF(国際通貨基金)経済危機20年を迎えて20年になり企画記事を準備したいのでこれを手伝ってほしいと頼まれた。当時、職場を解雇されたり就職が取り消しになるなど、人生に大きな影響を受けた人を探しているのだが、それがなかなかうまくいかないのだと言った。

 
そういう人はいくらでもいるはずなのに、なぜこんなに見つからないのか、最初は理解できなかった。ところが探し始めるようになってその理由がだんだん分かってきた。20年という歳月は、韓国では非常に長い歳月だ。こんなに大変なことを体験しても、昔話のように感じ、当事者も「詳しいことはよく思い出せない」と言ったりする。しかも「20年も過ぎたが、なぜ韓国でもない日本でそのような記事を書くのか」と不思議に思われた。

日本は少し違う。2011年東日本大震災はもちろん、1995年の阪神・淡路大震災も毎年その時期が来ると当時を振り返ったり、犠牲者の遺族がどのように暮らしているのか、再発防止対策などのさまざまな報道が出る。20年になる年は大々的に報道した。忘れないためだ。

先輩がIMF危機20年を取材すると聞いた時、一番最初に頭に思い浮かんだのは、2002年韓国に初めて留学に来た時に会った友人だ。私は当時、IMF危機がどういうものかよく知らなかったが、その友人の父親の工場が倒産し、母親は家を出て行ってしまったと聞いた。頑張って毎日を生きながら、何とかして夢をかなえようと努力している姿を見て私も刺激を受けた。

先輩にはIMF危機の時に銀行員だったが解雇されたという人を見つけて紹介した。初めてインタビューを依頼した時は「解雇されて悔しいと思わなかったし、むしろ違う仕事をたくさん経験することができて良かった」と何でもない事のように話していた。ところが先輩と一緒に話をインタビューを進めていくうちに苦労談が出てき始めた。この人は当時融資担当だったので、事業が傾いた中小企業の社長が多く訪れてきて彼にあれこれ訴えたという。「私がどうすることもできないのをよく知りながらも、そういうふうに訴えるほかなかった社長の心情も十分理解していた。そうしているうちに、うちの銀行が退出銀行に指定されて他の銀行に買収されて私は解雇された。私よりもはるかに深刻な状況に陥った人々をたくさん見ていたので、解雇されたくらい何でもなかった」。直接的な理由ではないかもしれないが、彼が奥さんと別れたのも解雇と無関係ではなさそうに見えた。

インタビューはしなかったが、他の数人からもIMF危機に関する経験を聞いた。父親が大宇(デウ)グループの社員だったという人は、グループが解体されてその時まで、会社から支給されていた大学登録料が途絶えて自分で稼がなくてはならなくなり、就職は思いもしなかったというという。結局、20代で事業を始めて成功したという。また他の人は97年に就職と同時に解雇され、予定されていた結婚も延期し、海外に出てアルバイトで稼いだという。今はジャーナリストとして活躍している。

2人の経験を通じて、短い期間に痛みを克服した韓国の底力を実感した。もちろん自殺したり再起できないほど深刻な状況に陥ったりした人々も多かっただろう。

日本で辛い記憶を再確認して絶えず報道するのには理由がある。その痛みを再び繰り返さないようにしようという覚悟だ。地震自体は自然災害なので防ぐことは難しいが、これにどのように備えて対処するべきか、痛みを共有して今後の犠牲を減らそうということだ。韓国もそうしたら良いのにと思う。胸が痛い記憶だが、20年前に起きた経済危機を振り返れば今後も忘れてはいけない教訓を得られるはずだ。いつ再発するかもしれない次の経済危機の犠牲者を減らすためにも。

成川彩/日本人ジャーナリスト(東国大大学院在学中)

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