【時視各角】尹東柱が問う、恥ずかしくないのかと=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.03.03 15:15
一部の節制のない群衆の言葉だけが過激で下品なわけではない。総選挙を控えた政治家とその周囲のいわゆる社会指導層の言葉も非常に軽薄で恥知らずだ。選挙で民意の審判を受けるという言葉はもう修辞として残っているだけだ。国民の考えと意志に対する思索と探求は消え、与党候補は大統領に対する忠誠心を競争する言語で自らを美しく飾り、多くの候補は自身の有利不利に基づく泥仕合と派閥の言語を乱発する。
生死リスト・陰謀・自作劇・公認争い劇…。総選挙時局の言葉は非常に荒っぽく、時代の言語を運ぶメディアは毎日、彼らが排泄した恥ずかしい言語で目がくらみそうだ。
映画『東柱』で詩人の父は息子に「医大に行きなさいとし「文を書いたところで記者にしかなれない」と話す。尹東柱は過去に生きたため今のこの時代に記者にならなかったことに安堵する。恥ずかしい言葉を恥ずかしいとも知らずに使う、恥ずかしさという言葉さえ忘れた時代に、恥ずかしい記者として生きるには、彼の言語世界はあまりにも廉潔だ。
誰が尹東柱ほど悲痛な生活を送っただろうか。それでも彼には恨みを込めた卑しい言葉がない。ただ、言語に対して激しく思索しながらも恥ずかしく感じただけだ。彼が死去して70年が過ぎてもこのように心を打つのは、恥ずかしさを知る言語の偉大さのためだろう。極めて過激で恥知らずな言語が支配した今日、映画の中であっても尹東柱が帰ってきたのは、我々に恥を問おうとする彼の純潔な心が発現したためなのかもしれない。
ヤン・ソンヒ論説委員
【時視各角】尹東柱が問う、恥ずかしくないのかと=韓国(1)