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【コラム】裸になった大統領=韓国(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.07.06 11:38
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だが福祉がただでは得られなくなるというのは間違った話ではなく、THAAD配備は国防委の時期からの所信なのにどうだというのか。民主共和国において大統領と政府与党の院内代表の考えが違うことはありうるし、しばしば会って調整していけばそれだけのことなのに、そのつもりは少しもなく、いきなり「自分の政治」に「背信」というのは、治盗棍ではなくて何なのか。

裸になった王よりも滑稽なのは「服が素晴らしい」と騒ぐ臣下たちだ。国会法改正案で野党と交渉した院内代表に「本当にうまくやった交渉」とほめて「違憲の素地もない」と相槌を打っていた人々が、大統領の一言で態度を一変させて青筋を立てる。誰かは「青瓦台を党の出張所にする」と口角泡を飛ばしながら最高委員になったのに、最優秀の青瓦台の出張所になってトーンを高めている。「彼が首相になれなかったことが本当に幸運」と胸をなでおろさせる、その要人だ。

 
太郎の絵について審査委員たちはこのように話す。「浅はかだ。アンデルセンのような世界的作家をこのような大名で理解させるのか」。「脱亜入欧」を追求した日本が、それを成就したという幻想におぼれて自分たちの文化を自ら卑下することだ。自ら国民の代表として青瓦台の忠実な僕(しもべ)に格下げしながらも、恥を知らないエリートたちと似たようなものだ。

審査委員たちの嘲笑が極に達した時、主人公はその絵が写生大会を主催した会社社長の息子が描いたものだと話す。慌てて首を引っ込め、こっそりと退席する審査委員たちの背中で主人公は笑い出す。

だが痛快なことは長くは続かない。審査委員たちは偽りの服を見る驚きの見識で審査を続けるだろうし、太郎はいつも落選を免れないはずだからだ。私たちの現実も違わない。大統領が残る任期の間に恥を知って服を用意して着そうになく、偽りの服を見て感嘆する周囲の曲芸が続くのは明らかだ。そのたびに治盗棍で打たれる太郎がどれほど出てくるのだろうか…。

イ・フンボン論説委員


【コラム】裸になった大統領=韓国(1)

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