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「慰安婦被害者の故金君子さん、怒りを他人を思う気持ちに変えた」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.07.27 09:10
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金君子さんが社会に出ていけるように支援した旌善郡の元社会福祉相談員のウォン・ジョンニョさんが25日、葬儀の途中で金さんを追慕している。
1996年2月当時、69歳のあるおばあさんが「日本軍慰安婦被害者」として韓国政府に登録された。42年、日帝に強制的に連行されて光復(解放)と共に故郷の地を踏んでから実に50年ぶりのことだった。その間、16歳の花のような少女は老人になっていた。

このおばあさんは11年後、米下院議会公聴会に出席して慰安婦の惨状を生々しく証言することになる。米下院はこれを契機に日本政府の公式謝罪などを求める決議案を全員一致で採択するに至った。今月23日、老患で他界した金君子(キム・クンジャ)さん(91)のことだ。

 
金さんは、一時「慰安婦」という残忍な後ろ指や刺すような視線が怖くて世の中から徹底的に隔絶して生きていた。このような金さんがその心を初めて開いたのが、江原道旌善郡(カンウォンド・チョンソングン)の元社会福祉士、ウォン・ジョンニョさん(70)だ。ウォンさんは天主教信者である金さんの宗教的後見人であり代母でもある。

暑い夏、冷や汗をびっしょりかいている金さんの健康を祈る意味で、レーヨンの寝具を準備しようとしていたウォンさんはあまりにも急な悲報に、告別式の間中、沈痛な表情だった。言葉少なに金さんの世話をしていたウォンさんに25日、葬儀の儀式が執り行われた京畿道広州(キョンギド・クァンジュ)のナヌムの家で会った。

--金君子さんに初めて会った時のことを覚えているか。

「確か1991年か1992年のことだったと思う。一人のおばあさんが江原道旌善郡庁の嘆願室(地域の住民の苦情を受け付けるところ)に訪ねてきて『健康保険が使えず、病院での診療を受けることができないがどうすればよいか』と相談しに来た。当時対応した職員が福祉相談が必要だと判断して私を紹介した。ひと目で見てもみすぼらしい身なりだった。片方の耳は聞こえず、足が不自由で杖をついていた」

--金さんの当時の生活の様子は。

「家を訪ねてみると、山の奥の古いわらぶき家で一人で生活していた。ちゃんとした生計を立てているというふうではなかった。初期相談は大変だった。何かずっと隠し、迷っているような感じを受けた。家族の話さえしようとしなかった」

--どのようにして金さんの閉じた心を開いたのか。

「金さんの警戒心をほぐそうと何度も訪れた。そんなある日、自分のことを“挺身隊”だと言った。16歳の時、日本軍に強制的に連行されて中国(吉林省琿春)の慰安所で体験したひどい仕打ちを少しずつ打ち明けるようになった。家族にさえ話せない内容だった。私は金さんに恥ずかしいことではないと慰労の声をかけた」

--日本軍慰安婦被害者登録まで平坦な道のりではなかったと思うが。

「(生活支援費などを受け取ることができる)慰安婦被害者登録をしてはどうかと申し上げたところ、金さんは非常にびっくりされた。人々の視線をとても恐れていた。当時、登録をするには証言が必要だった。あまりにも強く拒否したうえに録音機も一般的ではなかった。金さんに内緒で内容を数日書き留めた。粘り強く説得した末に、ようやく(1996年に)登録ができた」

--金さんにナヌムの家を推薦した契機は。

「同じような痛みを持った人々と生活すればよいのではないかと考えた。ナヌムの家が実際どのような所なのか、何回も事前調査までしたことを思い出す。98年からナヌムの家で生活を始めた」

--金さんはどんな人だったか。

「胸の奥に強い怒りを持つ方だった。だが、本当にすごいことは、その怒りを人のために何かしようという気持ちに変えたことだ。生活費を集めて2億5000万ウォン以上を寄付された。ある時は金さんの車椅子を押していたときに学生が近づいてきて『ありがとう』と挨拶をした。実は金さんが寄付した奨学金で勉強した学生だった」

--金さんがとても懐かしいようだ。

「厳しい苦難を経験したためか、普段から冷や汗をびっしょりかくことがあった。さらっとした感触のレーヨン素材の寝具を買って、今週、様子を見に行こうと思っていたのだがそれができなかった。もっとよく顔を見にいってあげられず心が痛い。すべてのことを許し、今は安らかに眠りにつくことを切に望むばかりだ」

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