【近代の私生活】日本人に「賄賂」として渡った多数の文化財
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.11.08 16:44
強制併合4カ月後の1910年12月、李会栄(イ・フェヨン)6兄弟と親族60余人が荷物を持ってソウルを離れ、満州へ向かった。 9人の領議政と1人の左議政を輩出した「三韓甲族」の一家として、国の恩恵を返すためにすべてのものを捧げるという覚悟だった。 一家は離れる前に全財産を処分した。 家屋や田畑はもちろん、家内で代々伝えられてきた骨董や書画も持ち出して売ったり、処分した。 いつまた帰ってくるか分からない遠い旅に出る前、行路で面倒になる重い荷物、割れ物は持って行くことができなかった。
この頃、ソウルを離れたのは、独立運動をしようと海外に亡命する人たちだけでなかった。 ソウル両班(ヤンバン)の生計手段は本来‘官職’だが、国が亡びただけに残る理由はなかった。 高等官はもちろん中間官吏さえもすべて日本人になったため、ソウルに残っても将来は見えなかった。 手遅れになる前に、いくらにもならない家産でも処分し、縁故がある田舎に農地を準備するのが賢明だった。 1910年以降の数年間、ソウルの日本人人口は急増したが、朝鮮人の人口はそれ以上に減った。 ソウル北村(ブクチョン)両班街では一日に数軒が引っ越しし、その度に後に文化財として評価されそうな物が捨てられたり安値に商売人の手に渡ったりした。