주요 기사 바로가기

義親王の上海臨時政府亡命が成功していれば大韓帝国は続いていたかもしれない(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2016.08.22 11:43
0
--映画では英親王が上海に亡命しようとしたと描かれている。この部分が事実とは違うといって論争になっている。このことはどう思うか。

「日本が朝鮮への侵略の色合いを薄めるために英親王を方子(李方子)王妃と結婚させました。英親王は欧州を歴訪して上海にも訪問する計画があったといいます。ところで、そこには祖父の高宗皇帝が先に(フィアンセとして)決めた英親王の王妃である閔甲完(ミン・ガプワン)女史が来ていました。そういうところも実に素晴らしかったのに映画ではそれが描かれなかった。そういうところがやや残念でした」

 
--もし上海の亡命が成功していれば王室が独立運動を主導しただろうか。

「そうしたでしょうね。父(義親王)は1919年11月に上海に亡命をしようとしていました。しかしその途中、新義州(シンウィジュ)安東(アンドン)駅の列車の中で日本の警察に捕まってしまいました。もしその時、英親王が上海の臨時政府にいて父が亡命に成功をしていれば大韓帝国が続いていたでしょう」(義親王は亡命に失敗した後、12年間昌徳宮で監禁状態で過ごした。)

--兄の李ウ(義親王の次男)に対する思い出は。

「兄は非常に民族意識が強い方でした。それで日本の軍人になっても日本語が使わないようにしていたそうです。部隊内でも。精神病者と非難されながらも日本語を話さなかったそうです。満州で独立軍の馬を密かに飼育していましたが日本が不審に思い日本に転出させたのです。その一週間後に広島に原子爆弾が落とされて亡くなりました。兄はまだ日本の靖国神社にいます」

--故国に帰ってきた徳恵翁主はどのように生活していたか。

「その時は李方子王妃が生きておられたので昌徳宮の楽善斎の後にある寿康斎の建物で暮らしていたそうです。プクサン宮(グン)という老人1人がおられました。その方が徳恵翁主の身の回りの世話をしていました。家族が徳恵翁主の周りに座ってチョルをしても誰か分からないようでした。空だけを見て。認知症だったうえに精神も錯乱していたので。そして『おばさま』と言って手を握ると、涙をぽろぽろとこぼしていました。徳恵翁主は李方子王妃が亡くなる一週間前に亡くなりました。それが89年4月21日でした。その時にはまともに話もできない状態でした。叔父の英親王もソウル明洞(ミョンドン)聖母病院に7年おられて亡くなりました」(中央SUNDAY第493号)


義親王の上海臨時政府亡命が成功していれば大韓帝国は続いていたかもしれない(3)

義親王の上海臨時政府亡命が成功していれば大韓帝国は続いていたかもしれない(1)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    義親王の上海臨時政府亡命が成功していれば大韓帝国は続いていたかもしれない(2)

    2016.08.22 11:43
    뉴스 메뉴 보기
    2004年日本皇居前で「韓日併合無効」と書いたプラカードを持ってデモする李錫総裁(写真1)。筆文字で事必帰正を書く李総裁(写真2)。
    TOP