주요 기사 바로가기

朝鮮人参の日本不法搬出に協力した人たち(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.12.10 15:36
0



1721年7月、対馬は調査事業の責任者に越常右衛門という人物を倭館に派遣した。越常右衛門は動植物の搬出を担当する人と、実物を確保できない場合に絵を描く人を連れてきた。

 
倭館に入った越常右衛門はすぐに朝鮮人協力者を集める作業を始めた。まず注目したのは訓導出身の李碩麟(イ・ソクリン)だった。当時すでに還暦が過ぎていた李碩麟は事業に参加する朝鮮人を倭館側に紹介した。地方の衙前・医員・僧侶など幅広い分野の朝鮮人が倭館に入ってきた。日本側の資料には玄梧、緇白などの朝鮮人の記録が出ている。僧侶を引き込んだのは、山中に居住しているため動植物に詳しいという判断からだ。

倭館は李碩麟をはじめとする朝鮮人協力者らに莫大な資金を渡した。謝礼金を前払いし、出張費、動植物の入手にかかる費用、それを倭館に運ぶのに必要な運搬費など、すべてを負担した。お金の力が大きかったのか。朝鮮人協力者は倭館から近い慶尚道(キョンサンド)はもちろん、遠い平安道(ピョンアンド)、咸鏡道(ハムギョンド)まで行って各種の動植物を捕獲してきた。倭館の日本人は手に入った動植物の大きさを測定し、精巧に絵を描いた。そして標本用として乾燥させた葉・根元・実など植物の標本、はく製にされた動物が次々と日本に送られた。

事業が始まった直後の1721年10月、対馬の島主・宗義誠は、倭館が搬出した朝鮮人参を将軍徳川吉宗に進上した。桐箱に朝鮮の土を入れ、土が乾かないように苔まで敷き、朝鮮人参の種苗を慎重に運んだ。対馬は1728年までに35本の朝鮮人参生根と60粒の種を将軍に進上した。

日本側は搬出した朝鮮人参を各地に植えて試験栽培を始めた。栽培を繰り返し、日本は18世紀前半、ついに朝鮮人参の国産化に成功した。やがて「オタネニンジン(御種人参)」と呼ばれる日本の朝鮮人参が大量に普及し、朝鮮人参の対日輸出は中断された(チョン・ソンイル、『朝鮮後期対日貿易』)。そして18世紀半ば以降、朝鮮人参の輸出がなくなり、朝鮮に入る日本の銀の量は激減した。

朝鮮政府は1721年から30年間続いた日本の「朝鮮薬材調査事業」の存在を知らなかったとみられる。景宗から英祖初年まで続いた激烈な政争のためか。朝鮮政府も知らない間に日本は朝鮮人を買収し、朝鮮の山野を掻き回したのだ。

ハ・ミョンギ明知大教授・韓国史


朝鮮人参の日本不法搬出に協力した人たち(1)

【今日のイチオシ記事】
・日本が朝鮮のために戦った日本人武将の記念碑を建てた理由
・北朝鮮をかばって孤立する中国…一歩遅れて深刻性を認識
・クローバーを食べていた北朝鮮の浮浪者が死亡
・ゴールデンディスク大賞の少女時代と2AMが涙
・LGディスプレー、談合罰金に不服 控訴方針

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    朝鮮人参の日本不法搬出に協力した人たち(2)

    2010.12.10 15:36
    뉴스 메뉴 보기
    対馬が「朝鮮薬材調査」当時に捕獲し、精巧に描いた朝鮮のノロジカの姿(田代和生、『江戸時代朝鮮薬材調査の研究』)。
    TOP