【時視各角】「短く太く」…地震と積弊清算の共通経験則=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.11.21 15:22
2011年3月11日、マグニチュード(M)9.0の東日本大震災を現場で経験した。それも震源地の東北に到着して2時間でこの地震に「遭遇した」。巨大地震が襲う1分前、突然ポケットの中の携帯電話から「ピーッピーッピーッ」という連続音が鳴った。「Jアラート(災害予報のお知らせ)」の警告音だった。それから10秒も経たなかった。「ドーン」という轟音とともに建物全体が激しく揺れ始めた。前にあった机をつかんだが倒れた。横にいた知人は顔面蒼白のまま(私もそうだっただろう) 「うわっ、うわっ」と連発した。
だが、最も大きい恐怖はその規模ではなかった。その「長さ」だった。当時、地震は本震だけで190秒(3分10秒)も続いた。30秒経過した時、「もうそろそろ終わるだろう」と思った。2分が過ぎ、「うう、いつまで続くんだ」と考えた。3分が過ぎる時には「ああ、これで死ぬかもしれない」という考えがよぎった。翌日午前4時30分、震度6の余震の恐怖はそれ以上だった。電気・水道・通信がすべて途絶えた暗闇の中、ホテルの一室で感じた余震は何と4分以上も続いた。その時は「ああ、もうこれで終わりだ」とまで思った。
一方、1995年阪神・淡路大震災のマグニチュードは7.3。だが、本震はわずか15秒〔浦項(ポハン)は約10秒〕だった。恐怖を感じる時間が相対的に短かった。そのため、「どうせ(地震に)遭うくらいなら短くて太いほうがまし」という知り合いの日本人の冗談半分本音半分の言葉が私には理解ができる。恐怖は「不確実性の時間」に比例する。