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元中国大使の丹羽氏「日本の北朝鮮への対応、戦前を彷彿とさせる」(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.09.20 16:10
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続いて翌年3月には清皇室を利用した傀儡政府「満州国」を立てて本格的な満州統治を始めた。国際社会は軍撤収を要請したが、日本はこれを拒否して1933年3月、国際連盟からも脱退した。ついに東条英機内閣は1940年ドイツ、イタリアと枢軸国3者同盟を結んで連合国に対抗するに至った。したがって、日本の立場では満州事変が崩壊の原点とも言える。丹羽氏は、「(当時、日本は)満州事変を快挙と報じた」とし「戦前の日本人はファクトに目を向けず、フェイクニュースに踊らされていた」と指摘した。

当時の日本の新聞は、関東軍の満州征伐を正当化するために「中国はけしからんから、懲らしめてやるべきだ」という論調を広めた。また、満州を日本を大恐慌の衝撃から救い出す「日本の生命線」「王道楽土」などのスローガンを掲げて必ず日本のものにしなければならない地域として、世論をあおっていた。

 
実際、満州事変が起きると、各紙は「快挙」と報道しながら、本国の許諾もなく満州へ進撃した朝鮮派遣軍司令官の林銑十郎を「越境将軍」ともてはやした。軍部が林に責任を問えないような状況を作っていったのだ。このようにメディアが「抗命」を「功績」としたおかげで林はその後、総理大臣にまで上り詰めるまでになった。

これに関連して丹羽氏は、「実状に目を開いて満州無用論を展開する少数の見解もあったが、大勢に逆らえなかった」と評価した。この時期に軍国主義を批判した石橋湛山の『小日本主義』が代表的だ。資本主義が成熟していない日本にとっては、満州はもちろん朝鮮や台湾など植民地は投資に対する利益が少ない赤字プロジェクトだとし、、それどころかまずは日本国内の資本を豊かにするべきだという主張だった。

その予想通り、満州統治の結果は残酷なものだった。丹羽氏は、終戦以降に満州に取り残された日本人は塗炭の苦しみを味わったとして、「戦争体験者が日本の現状を危惧する背景には、形は違えど北朝鮮に対する日本や 林銑十郎の対応が戦前を彷彿とさせるからだろう」と主張した。それとあわせて「2500万人の国民を率いるリーダーが、対話もできないような野蛮人ということはありえないと思っている」とし「対話する余地があるのに相手に“力”をかけ、窮鼠(きゅうそ)に追い込み対話を放棄することは、とても危険なことである」と主張した。


元中国大使の丹羽氏「日本の北朝鮮への対応、戦前を彷彿とさせる」(1)

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