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【コラム】キャンプマーケット=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.09.30 14:19
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2002年冬。中央日報の入社試験の現場評価2回目の日。すでに何回かの関門を通過し、それだけにさらに切実となった受験生の前に、ある評価委員が現れてホワイトボードに「MARKET」と記した。それから「さあ、では現場へ」と言って立ち去った。

市場についてのルポをしろというのか。何人かに電話をかけて、意味が広くてきりがないと吐露したところ、ある友人がこう話した。「この前、大学生たちがキャンプマーケット(Camp Market)の垣根を越えたじゃないか」。

 
仁川市富平区(インチョンシ・プピョング)にあるキャンプマーケット。私が育った町内の米軍部隊。幼い頃、マーケットは1つの自然条件だった。部隊へ向かって果てしなく鉄道で、夏はカエルをつかまえ秋にはトンボを追った。大人たちは富平の酒場や商店が部隊の正門から生まれたと言った。片隅には「イエローハウス」もあった。思春期のもやもやした時期になるとそちらに集まっていった。わき目で見た女性の肌は、やっとのことで太ももだけだったが私たちには充分だった。マーケットの正門を中心に形成された市街地を、富平の人々は新村(シンチョン)と呼んだ。

マーケットは地形的に富平を半分に分けた。直線で歩いて10分の距離だったが、マーケットを間に置いて現代デパートとシティーデパートが入った。大きいアパート団地である現代アパートと東亜アパートが部隊を挟んで建てられた。汝矣島(ヨイド)公園の面積の2倍にあたる44万平方メートルのマーケットは、そうやって富平の真ん中を横切って占有していた。アパートの高層階に住む友人の家に行けば、冬でも真っ青な芝が敷かれた風景が目に映った。軍属の子供は学校に米軍のPX(Post Exchange)品を持ってきたりもした。マーケットは、貧しかった時期には富平の商圏に寄与したが、富平がさらに繁盛すると地域の発展を遮る存在になった。

散りぢりになっていたマーケットについての記憶が初めて整理され始めた。評価課題だったMARKETを、キャンプマーケットとして解けるようだった。私は町内に行った。新村の中心であるマーケットの正門は消えていなかった。米軍が正門をレンガで覆っていた。機動隊バスが部隊を囲んでいて、警察は私に身元を尋ねた。2002年その年にはワールドカップがあり、女子中学生だった申孝順(シン・ヒョスン)さんと沈美善(シム・ミソン)さんが米軍装甲車にひかれて亡くなった。大学生は米軍部隊の垣根を越えて捕まることを繰り返していた。

マーケットは日帝時代の造兵廠(兵器工場)だった。毎日小銃4000丁、弾丸70万発が作られた。1951年に造兵廠は米軍に供与された。仁川港と近く補給部隊(マーケット)が入った。そこは一度も私たちのものではなかった。

2002年、デモが大きくなると米軍司令官は韓国の国民性に言及した。沖縄米軍の犯罪が発生すると駐日米大使がひざまずいて謝罪するのがうらやましかった。2013年、米軍の犯罪に司令官はひざまずいてはいないが丁重に謝った。最近、仁川市はマーケット敷地についての管理計画を発表した。マーケットは平沢(ピョンテク)に移転する。2017年、その場所は初めて私たちのものになる。私の子供は鉄道もイエローハウスも知らずに44万平方メートルの公園を記憶することになるだろう。

カン・インシク政治国際部門記者

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