【コラム】私たちは何に感動するのか=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.09.26 18:25
厳しい世の中。当事者にとっては気の毒な半面、幸いなハプニングだったが、多くの国民が共感して心の癒やしとなった。母親の限りない子供愛があり、今では決して他人事ではない認知症があり、新しい生命の誕生という慶事に警察官の献身的な姿勢まで重なったためだ。この話を聞いて心が痛み、そして感動しない人は人ではない。私たちが知らないだけで実は似たようなことは時々ある。先月の22日にはソウル南大門(ナムデムン)警察署太平路(テピョンロ)派出所の警察官が道行く人の申告を受けて道に迷った11歳の少年の家を探してやった。調べてみると知的障害3級だった。この少年は自分の名前を話すだけで、両親の連絡先と住所は話さなかった。警察官が「ジャージャー麺食べたい」という少年の話からヒントを得て「ジャージャー麺を配達する中華料理店の電話番号は分かるの?」と尋ねるとすぐに電話番号をいくつか話した。その中の一カ所が江西区(カンソグ)の中華料理店と確認でき、そのおかげで両親を探すことができたという話だ(ソウル警察庁フェイスブック)。
大勢の個人の感動は大きな変化を引き出すことができる。集団的な感動が制度を変えて社会を良くなるように変化させる威力を発揮する。そして随所で噴出する感動を敏感に把握し、変化の器に入れることが政治と行政の役割だ。果たして韓国の政治はそのような役割を行っているだろうか。釜山の認知症おばあさんの場合、夫と死別した後、小さなアパートで一人暮らしをしていた。認知障害を抱えながら一人で生活するのはどれほど大変だっただろうか。子供たちはいるが家庭ごとに事情があるのでおいそれとは書けないが、私が強調したいことは名札や行方不明防止装置(徘徊感知器)のようなサービスがなぜおばあさんに提供されなかったのか、老人療養保険の看病サービスも受けられずにいたのか、区庁・市庁はその間、何をしていたのかという疑問だ。政治家と官僚には感動の裏面に隠れた問題点を整理して社会を変化させる義務があるのではないか。