在日同胞差別に立ち向かった権禧老さんが死去

在日同胞差別に立ち向かった権禧老さんが死去

2010年03月28日11時46分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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   「私に民族差別の鬱憤を抱かせた卑劣な小泉刑事の口を通して、公権力による不当な民族差別があったとのことを明確に明らかにし、深く謝罪しろと要求しました。…警察の説得要請で事件現場に来た母が『禧老、きれいに死になさい。お前は私が産んだ子だから日本の警察の手で死んではいけない。ダイナマイトで死ぬのはやめて、持っている銃で死になさい。お前の遺体は私が納めなければいけないから』と言って自分で作った韓服(ハンボク)を渡してくれた」。

  1968年2月20日、在日同胞差別に抗議し、日本静岡県清水市で暴力団員を銃で殺害した後、旅館の宿泊客を相手に88時間にわたる人質劇を繰り広げた権禧老(クォン・ヒロ)さんの回顧だ。99年9-10月、19回にわたり中央日報に掲載された獄中手記「母さん、憎しみを越えた」に出てくる部分だ。

  権さんが3年前から前立腺がんで闘病生活をしていたが、26日午前6時50分、釜山東莱区(プサン・トンネグ)ボンセン病院で死去した。82歳だった。

  故人は1928年、日本静岡県で釜山が故郷の埠頭労働者クォン・ミョンスルさんとパク・ドクスクさんの間の長男として生まれた。権さんは1934年、清水小学校に入学したが、‘朝鮮人’という理由でいつも蔑視された。

  「弁当に入った麦飯を見て日本の子どもたちがからかったのでけんかをした。しかし担任の先生は有無を言わせずスリッパを脱ぎ、私だけを殴った」。3年生の時に起きた弁当事件だ。

  結局、権さんは小学5年で学業をあきらめ、名前を8度も変えながら職場を見つけたが、いつも‘朝鮮人’であることが周囲に知られ、職場から追い出された。

  故人は1968年2月当時、借りもしていない金を返せと脅迫してくる暴力団の親分に「朝鮮人、汚い豚」と悪口を浴びせられ、暴力団員を殺害した。2時間前に叔父・叔母ら家族を集め、「叔父がヤクザに日本刀で刺されるなど苦しんでいる同胞がたくさんいる。命を賭けて奴らと戦う」と話した後に繰り広げた行動だった。権さんは翌日未明、18人の宿泊客がいた近くの寸又峡温泉村のふじみや旅館に篭城、銃とダイナマイトを持って88時間にわたり警察と対峙しながら在日同胞の差別撤廃を要求し、結局、逮捕された。

  こうした権さんの人生は、1992年に柳仁村(ユ・インチョン、現文化観光体育部長官)、イ・ヘスク主演の映画「金の戦争」の素材になった。

  1975年に無期懲役刑が確定して服役していたが、90年初め、死刑囚を対象に教化活動を行っていたパク・サムジュン僧侶を中心に釈放運動が起こり、韓日外交問題にまで発展した。99年に仮釈放形式で解放された後、韓国に永久帰国した。

  済州市(チェジュシ)が「権嬉老ムクゲ公園」を造成し、当時の安相英(アン・サンヨン)釜山市長が名誉市民記念金メダルを授与するなど歓迎行事が相次いだ。しかし権さんは「私は英雄でもなくて愛国の志士でもない。理由もなく私のような同胞を差別して苦しめた悪い日本人と公権力に反抗した罪で監獄で過ごした不幸な人間にすぎない」と語った。

  暴力団員を殺害した行為については「いかなる人も殺人を正当化できないように私が犯した行為も同じだ」と反省した。日本についても「私に本当に有難くしてくれた人たちも多い。差別をする日本人だけを憎む」とし、韓国民の反日感情を警戒したりもした。

  権さんは4歳の時に父を失い、その3年後、母が金(キム)氏と再婚し、姓が金に変わった。このため映画の題名は「権の戦争」ではなく「金の戦争」となった。帰国後、住民登録証を受け、権という姓を取り戻した。

  権さんはサムジュン僧侶の紹介で少年院などを訪れ、教化活動を行ったりもした。しかし2000年、内縁女性の夫に暴行を加えた事件など、31年を超える獄中生活による性格障害行動で保護監護処分を受け、世間の関心から遠ざかった。

  26日、権さんの死を聞いてソウルで駆けつけたサムジュン僧侶は「2週間前に最後に会った時、『11年間、故国でよい時間を過ごした。国民に感謝の気持ちを伝えてほしい』と話していたが、それが最後になるとは思っていなかった」と語った。

  葬儀は家族葬儀(三日葬)で行われる。28日午前8時30分に出棺、釜山ヨンラク公園で火葬される。故人の遺言により、遺骨の半分は祖先の故郷である釜山影島(ヨンド)沖にまかれ、残りは日本静岡県の母の墓に埋められる予定だ。
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