【グローバルアイ】日本の「驕りと偏見」を越えるには
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2010.01.03 13:24
先日、早稲田大から2度、講師として招待を受けた。 「韓日政治の比較」と「韓国文化の理解」という講義だった。 驚くような質問が多く、両国間の壁は依然として高いことを改めて感じた。 例えば、なぜ韓国人女性はセルフカメラを撮影してサイワールドに載せるのか、韓国ではなぜ容疑者の顔を公開するのか、などだった。 デジタルカメラは反復的に一人でも撮れるからそうではないだろうかと答えた。 容疑者の顔の公開は韓国では例外的で、日本では日常化しているという事実を伝え、誤った認識を正したりした。
こうした形で日本は何でも日本を中心に韓国を見ようとする。 植民地時代はもっとひどかった。 日本は江華島(カンファド)条約(1876年)を契機に韓国併合(1910年)を着々と進め、韓国に対する偏見づくり熱を上げた。 韓国は植民統治を受けるべきだという論理を展開するためのもので、メディアと知識人を前面に出した。 甲申政変(1884年)後に福沢諭吉が書いた「脱亜論」はこうした流れのピークだった。 1万円券の顔の福沢諭吉は「隣国の開明を待ち、一緒にアジアを興こす余裕はない。 隣国だからといって寛大になるのではなく、西洋人の方式を見習う必要がある」と大衆を扇動した。 ‘近代日本の父’のこうした主張は、植民朝鮮を眺める日本人の普遍的な認識になった。 そのためか、今年「強制合併100年」であるにもかかわらず、日本ではほとんど関心がないような雰囲気だ。
その底辺には責任の回避と驕りがある。 10代の少女時代に強制労働をさせられた女性に年金99円を支払ったり、独島(ドクト、日本名・竹島)が日本の領土だと中学に続いて高校でも教えることにしたことからも分かる。 「ビビンパは羊頭狗肉の料理」と侮蔑するのも歪んだ見解と偏見、驕りの典型だ。 こうした形態を見ると、韓日の未来は決して日本の善意だけに任せていられないことを改めて感じる。 韓国の短所ばかり浮き彫りにした近代日本の否定的な韓国観が意外と根深いからだ。