「韓国修学旅行35年…宿題終える気持ち」 智辯学園の藤田理事長

「韓国修学旅行35年…宿題終える気持ち」 智辯学園の藤田理事長

2009年04月26日12時37分
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
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   「韓国への修学旅行には私の人生の半分が込められている。 35年の長い宿題を終える気持ちだ。 涙が出てくる…」

  23日午後、ソウルのあるホテル。 酸素呼吸器をつけて車椅子に座っている藤田照清氏がやや苦しそうに呼吸をしながら話した。 日本関西地方の名門、智辯学園の理事長を務める藤田氏は今年まで35年間、韓国への修学旅行にこだわってきた。

  35回目の修学旅行団は20日に韓国に来たが、藤田氏は23日に入国した。 健康が悪化し、修学旅行の日程に参加できなかったのだ。 それでも藤田氏には必ず韓国に来なければならない理由があった。

  「当初の韓国旅行は日本文化の根源を見るためだった。 飛鳥文化の中心である奈良の文化が韓国から伝来したことを生徒に見てほしかったからだ。 しかし修学旅行を続けながらの植民地時代35年間の日本の蛮行を知ることになった。 その後、韓国への修学旅行は贖罪の旅行になった。 決心もした。 少なくとも35年は贖罪する気持ちで修学旅行を続けなければいけないと。 そして今年ついに35年になった」

  年初、肺炎で生死の岐路に立たされた藤田氏だった。 しかし藤田氏は35年間の結実を自分の手でつかみたかったのだ。 医師の引き止めにもかかわらず酸素呼吸器に頼って海を渡った。 1975年に300人で始まった修学旅行団は今年600人を超えた。 この期間に藤田氏と一緒に韓国を訪問した生徒は1万8000人を超える。

  「日本でも海外修学旅行自体が珍しかった時代だった。 特に70年代の韓国旅行は日本では‘買春観光’というイメージが強く、女子生徒のいる保護者の反対は激しかった。 朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領暗殺事件、軍事クーデター、北朝鮮の核脅威、新型肺炎(SARS)拡散など何度も危機を迎えたが、韓国でなければ修学旅行自体をやめるとまで話しながら保護者を説得した」

  苦労して始めた修学旅行だったが、韓国で受けた歓待は忘れられない。 初めての訪韓当時、韓国人は韓日両国の旗を振りながら歓迎した。また旅行の終始、韓国警察の警護を受けた。

  「昌徳宮(チャンドックン)で李方子(イ・バンジャ)女史(1901-1989)に会った。 韓国で最もツツジが美しい落星台(ナクソンデ)で李女史が韓服(ハンボク)姿で生徒たちを迎えてくれた。 日本の皇孫が韓国で生きているという話に耳を傾けていた子どもたちの顔を今でもはっきりと覚えている」

  記憶に残るエピソードを尋ねると、藤田氏は「たくさんある」と言いながら笑みを浮かべた。 「今はそうではないが、以前、韓国のどの食堂に行っても麦飯が出てきた時期があった。 生徒は強く不満を表していた。 ホテルで水が出ず、生徒たちは体を洗えずに移動したこともあり、催涙弾のガスのため目を開けられなかったこともあった。 60年代の日本の大学を見るようで、生徒にはかえって良い現場教育になった」

  35年の歳月が流れ、日本の生徒も変わった。 日本の生徒はいま韓国を理解し、韓国文化を愛している。 「今は日本のどこでも韓国料理を食べられるが、以前はキムチも珍しく、カップラーメンを食べたり食事を抜いたりする生徒もいた。 最近の生徒は私よりも焼肉・ビビンパ・コチュジャンを好む。 今回訪韓した生徒はキムチを12回もリフィルして食べたと聞いた」

  藤田氏は昨年、韓国修学旅行のエピソードをつづった本を出した。 韓国修学旅行を始めたきっかけや韓国学校との交流などが書かれている。 インタビューのためにしばらく酸素呼吸器を外していたことで、短いインタビューでも藤田氏はやや苦しそうに呼吸した。 藤田氏は涙を浮かべながらゆっくりと話を続けた。

  「おそらく今回のが最後の訪問になる。 私自身との約束は今回で終わるが、韓国修学旅行は校長を務める3人の息子がずっと続けると信じている。 韓日両国の青少年が正しい歴史観を持って東アジアの人材として成長していくことを願っている。 これが韓国修学旅行に私の人生のほぼ半分を捧げてきた理由だ」
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