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【その時の今日】高宗「大韓帝国」を宣布…文化先進国の意志を国号に

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.10.15 10:05
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韓国と日本が共催したサッカーの02年・ワールドカップ大会(W杯)当時、国民をひとつに団結させたスローガンは「大~韓民国(テ~ハンミングク)!」だった。

 
そのころからスポーツの国家対戦を中継するテレビ画面の上段にも韓国の公式国号「大韓民国」が正式な表記として定着しはじめた。それまでは主に「韓国」と記した。戦争で廃墟になってから半世紀ぶりに先進諸国と肩を並べるようになったことへの国民の誇りが国号に対する愛情に拡大されたのだろう。

ところがいざ大韓民国が韓国の国号になった事由と意味をきちんと知っている人は多くないようだ。1897年10月12日、朝鮮(チョソン、1392~1910)の第26代王・高宗(コジョン)は慶運宮・大安門(キョンウングン・テアンムン)の正面に新しく設けられた圓丘壇(ファングダン、祭壇)に出て、大韓帝国を宣布し、天子の座に就いた。

中国人は古代から自国の国名は一文字にし、隣国の民族や国名は二文字にしてきた。近世に入り西洋の列強と接触してからは、これらの国名を敢えて三文字に合わせて米利堅、英吉利、仏蘭西、露西亜、墺太利などと書いた。西洋列強の侵奪で中華主義が敗退した後になってから、これらの国名を一文字に呼びなおした。朱子学に基づく華夷論を脱却できなかった当時、朝鮮の人々にとって帝国は当然一文字の国名を持たなければならなかった。それで定められた「韓」は韓国古代の国号のひとつだった。

衛満に国を奪われた箕子朝鮮(前196年ごろ滅亡)の最後の王、箕準(キジュン)が南方に降りてきて「三韓」の王になった、という古史から取ってきたのだ。「大」は、当時日本と清国が慣用的に使っていた接辞だった。箕子は世界最高レベルの普遍文化を象徴したことから、「大韓」という国号には文化先進国への意志が含まれていたわけだ。

1919年3月1日の独立運動(3.1運動)で独立を宣言した後、独立運動家の間で、新しく建国する国の国体と国号をめぐる議論が広がった。国体は「三権分立の原則に立脚した民主共和制に」決まって「民国」にし、「韓」をそのまま継承した。48年の制憲憲法は「己未3.1運動によって大韓民国が建国された」として、その時の国号継承を憲法の前文に明記した。3.1節(3.1運動が展開された日)を祝日に決めたのも、同日に建国節の意味を付与したからだ。

大韓民国は国号だけでなく、国旗も大韓帝国のものを継承し、国歌の歌詞も大韓帝国時代に作られたものから選んだ。政府樹立以降の大韓民国の歴史を再評価するという趣旨から、大韓民国館の建設に向けた準備が活発に進められている。この際、大韓民国の歴史的な淵源(えんげん)や国号の意味に対する関心も改めて呼び起こしたい。


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