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<光復70周年>日本の松代大本営を行く(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2015.08.18 17:13
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1944年末、日本の軍国主義勢力が工事を始めた長野市松代大本営の象山地下壕案内図。朝鮮人犠牲者平和追悼記念碑の建設を主導した塩入隆・長野県短期大学名誉教授が碁盤の形に建設された地下壕の構造を説明している。右側に戦争反対を誓う「不戦碑」が建っている。
東京から北陸新幹線で北西に約1時間40分行けば長野駅に到着する。1998年冬季オリンピックが行われた長野には、有名な善光寺がある。百済王が送った仏像をまつったところだ。

長野はこのように韓半島(朝鮮半島)と長年の縁があるが、日帝時代には強制徴用の悪縁がある地域でもある。長野駅で再び車に乗って東南に10分ほど走れば、松代という地域になる。千曲川橋を渡ると目の前に皆神山、舞鶴山、象山などが400~500メートルの高さで屏風のように連なっている。

 
日帝が第2次世界大戦末期の44年11月11日から45年8月15日まで松代大本営を建設したところだ。大本営は、天皇が総動員戦争を陣頭指揮した総司令部だ。日本の軍部は東京にあった大本営をここに移し、米軍主導の連合軍と本土決戦に備えようとしていた。海から遠く山で囲まれた天然の要塞だったからだ。

◆故郷思い描き「大邱」の文字も刻む

当時、軍部は国体護持(天皇を頂点とした国家体制維持)を名分に「持ちこたえれば勝つ」として決死抗戦を叫んだ。これに伴い大本営と皇居を舞鶴山に、政府機関とNHK・中央電話局などを象山に、皇族の住居は皆神山の地下にそれぞれ建設した。1億~2億円を投じ総延長13キロの穴を突き抜けた。約80%の工程率を見せたが45年8月15日、裕仁天皇が降参を宣言して全面中断された。

先月25日訪ねた象山地下壕は、外の気温が33度を上回っているのに内部は冷気が流れていた。案内者は普段、真夏でも14度を超えないといった。地下壕の長さは5853メートル。今は516メートルまで見学できる。壕の内部は高さ3メートル、幅4~6メートルで車両が通行できるほど広かった。

丈夫な岩盤にダイナマイトを設置して爆発させた跡があちこちに残っている。300メートル余り入ると朝鮮人徴用者などが離れた故郷を思い描いて岩壁に書いた「大邱(テグ)」という漢字を撮った写真が展示されていた。

朝鮮人強制徴用労働者のチェ・ソアム氏(91年死亡)は生前「ダイナマイト発破中に友人4人が死んだ」と証言した。慶尚南道(キョンサンナムド)が故郷である彼は「トンネル内で飛び散った遺体を探したが頭一つ探せなかった。その人の頭が天井の木板の間に挟まっていた」と悲惨な場面を伝えた。

◆発破事故、栄養失調で亡くなった朝鮮人

地下壕入口右側に95年8月10日に建てられた「朝鮮人犠牲者平和追悼記念碑」がある。碑石の裏面を詳しく見てみると松代大本営で行われた強制徴用の実体をさらに知ることができる。碑石には「地下壕掘削の中心的役割を果たした人々は当時、植民地の朝鮮から来た多くの強制連行者を含む6000人余り」と記録されている。

地下壕のそばにある恵明寺で会った中西智教住職(82)は「私が12歳だった45年当時、14歳の朝鮮の少年も連れられてきたし、その少年は同じ町内から10代の若者3人が共に連れられてきたと話していた」として「その少年は労働をとても苦しがっていた」と証言した。

当時、徴用労働者の生活は悲惨だった。追悼碑文によれば工事は厳しい監視下で夜昼を問わず強行された。食糧不足と栄養失調、発破および落盤事故で死亡者が続出した。逃げたり自殺したりする労働者もいた。処遇改善を要求して射殺された人もいた。犠牲者数は300人と推定されているが1000人という説もあると碑文は記録した。

この追悼記念碑建設を主導した塩入隆・長野県短期大学名誉教授(81)は「当初は1000人余りが亡くなったとみていたが600人余りが帰国したらしく300人余りが犠牲になったと推定している」と話した。


<光復70周年>日本の松代大本営を行く(2)

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