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19世紀に鬱陵島で造船した高興の人たち、独島を「ドクソム」と呼んだ…高宗の勅令が立証

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.08.22 10:23
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「全羅道高興(コフン)にはドクソム、石島(ソクド)、独島(ドクト)がすべてある」。社団法人「我々の文化を守る会」のイ・フンソク代表(72)は昨年12月にパク・ビョンジョン高興郡守とした電話の内容をはっきりと記憶していた。19世紀の鬱陵島(ウルルンド)造船産業と全羅道高興郡、そして独島(ドクト、日本名・竹島)の関連性を調べていた時だった。

「李舜臣(イ・スンシン)将軍の乱中日記で興陽(フンヤン、現在の高興)戦船所の話を見たのを思い出し、高興郡守にひょっとして高興にドクソムや石島という名前の島があるのかと尋ねたところ、意外にもすべてあるという話を聞いて驚いた」。

 
全羅南道高興郡には地名がドクソムという島が1つ、独島が1つ、石島が2つ存在する。古くからすべて「ドクソム(ドルソムのなまり)」と呼ばれたが、地籍図に登載される過程で漢字と音韻に分けてそれぞれ登載された。

イ代表と社団法人「我々の文化を守る会」(理事長キム・ムンス)はこの4年間、独島が韓国の領土であることを立証する根拠を探していた。特に集中したのは「石島」が「独島」であることを確認できる資料だった。

「第2条、郡庁の位置は台霞洞(テハドン)とし、区域は鬱陵全島と竹島(ジュクト)、石島を管轄する」。高宗(コジョン)皇帝が1900年10月25日に公表した「大韓帝国勅令第41号」の上の条項は、石島(現在の独島)が韓国固有の領土であることを立証する重要な根拠に挙げられる。1905年に日本の島根県が独島を不法に編入する5年前、すでに大韓帝国が石島を地方行政単位である鬱島郡(ウルドグン)の管轄領域として公表したという事実を明確に示すためだ。しかし日本はその間、「石島」が「独島」を意味するのか明確でないとして異議を提起してきた。

ところが昨年、イ代表が「石島=独島」であることを立証する重要な記録を見つけた。1938年に発行された最初の自国語の辞典『朝鮮語辞典』の初版本だ。「この辞典の379ページを見ると『ドク』を『ドル(石)のなまり」と説明している。当時、石島が独島の別の名称だったことを示す明白な証拠だ」

イ代表が今年2月に高興を訪問し、高齢者から聞いた「高興郡沖にある4つの島をすべてドクソムと呼んだ」という話もこれを後押しする。造船産業が発達した高興の人たちが鬱陵島と独島に渡って船を作り、その当時に独島を「ドルソム」のなまりで「ドクソム」と呼び、これが「独島」に変換されたという主張とその根拠の資料だ。

我々の文化を守る会とイ代表は高興郡・慶尚北道(キョンサンブクト)・全羅南道(チョルラナムド)の後援で今日午後2時、国会図書館でこれまで収集した資料を発表する「ドクソム、石島、独島」シンポジウムを開く。

イ代表の生涯の関心事は教育と文化事業だ。1973年当時、神学徒だったイ代表は教会の後輩と共に高齢者学校「徳明義塾」を設立した。当時、梨花(イファ)女子大の金玉吉(キム・オクギル)総長らが支援するほど注目された。IMF当時には欠食児童のための「コムコミ学堂」を作った。99年に社団法人「我々の文化を守る会」を設立し、子どものための「屋根のない学校」を目標に、京畿道楊坪(ヤンピョン)に文化と歴史、自然を呼吸できる環境教育の場「洗美苑(セミウォン)」を開設した。

「未来の希望である子どもたちに進取的な思考ができる環境を作るためにいろいろと悩んだところ『独島』が宿題として浮かび上がった」。

イ代表は「さらに広範囲な歴史の網をかけて歴史の小さな片鱗でも一つ一つ集め、独島がなぜ韓国の領土であるかを明確にしなければいけない」とし「我々ができなければ次世代までもこの争いから永遠に抜け出せなくなるだろう」と語った。

イ代表の次の研究目標は、1600年代の人物、安龍福(アン・ヨンボク)と雷憲僧侶が鬱陵島と独島を経て日本まで行った東海路程図だ。

「朝鮮と日本の歴史を合わせて最初に独島に行って朝鮮の地であることを明らかにした記録であり、19世紀に高興の人たちが鬱陵島・独島に進出した経路を推測できる資料になる」。

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    19世紀に鬱陵島で造船した高興の人たち、独島を「ドクソム」と呼んだ…高宗の勅令が立証

    2017.08.22 10:23
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    イ・フンソク代表が独島関連研究収集資料を綴った資料集『ドクソム、石刀、独島』を見せている。
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