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李舜臣銅像は「日本の気を抑えるため」

2004.04.09 19:25
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ソウル世宗路(セジョンノ)にある忠武公(チュンムゴン=李舜臣)の銅像が、そのまま残ることになった。 その代わりに、中央分離帯に植えられた大きなイチョウの木は別の場所に移される。

ソウル市の李種相(イ・ジョンサン)都市計画局長は9日「ソウルの代表的な記念物という点を考慮し、世宗路の李舜臣(イ・スンシン)銅像移転計画を白紙に戻すことを決めた」と発表した。

 
市は今年2月、光化門(クァンファムン)から世宗路の交差点に広場を造成する計画を発表し、忠武公の銅像を光化門の「開かれた広場」や忠武公の出生地である筆洞(ピルドン)付近に移す案を検討してきた。

この銅像が建てられたのは68年。彫刻家金世中(キム・セジョン)さんの作品で、ソウルの中央に立てられた軍事政権の残滓(ざんさい)という批判もあった。 しかし、ソウル市が過去の歴史と銅像の設置背景を追跡する過程で、新たな事実が浮上した。朝鮮(チョソン)時代のソウルの中心道は光化門-世宗路-南大門(ナムデムン)と続く道で、今の光化門-世宗路-太平路(テピョンロ)-南大門道は、竜山(ヨンサン)に日本軍が駐屯し、非常時に景福宮(キョンボックン)へと迅速に移動できるよう、新たに作ったものであることが分かった。 太平路と世宗路はソウル駅の拡大に伴い本格的に拡張され、総督府では、一般人に景福宮が見えないよう道路の中央にイチョウの木を植えたという。

ソウル市が調査した結果、銅像の設立当時、世宗路には世宗(セジョン)大王像を立てようとの意見もあったが、風水地理学者らが「世宗路と太平路の間が空き、南の日本の気運が強く入ってくる。これを制御する必要がある」と主張したという。

「愛国先烈彫像建設委員会」関係者の証言によると、朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領は当時「朝鮮王朝の道路の中心軸を復元するのは莫大な資金がいる」と拒否し「代わりに世宗路の交差点に、日本が最も恐れる人物の銅像を立てよ」と指示し、忠武公の銅像が立てられたという。

また今回の決定には、この1カ月間、インターネットによるアンケート調査の結果、回答者305人のうち266人が移転に反対したことも影響を及ぼした。

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