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<慰安婦生存者13人証言>数奇な人生、そして勲章(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.08.17 15:35
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「私はただ手伝いに行くものだと思った」。

先月22日、京畿道広州(クァンジュ)の「ナヌムの家」で会った金君子(キム・クンジャ)さん(89)は慰安所に行った日をこう振り返った。手ぶらで家を出たのが金さんの人生を変えた。金さんは自分の生涯を「数奇な人生」と表現した。

 
3人の娘の長女として生まれた金さんは10歳の時に父を、13歳の時に母を亡くした。「貧しくて生活があまりにも厳しいから3人が別々になった。下の妹は他人の家の子となり、上の妹も他の家に送られ…私も江原道鉄原(チョルウォン)の警察の家に養女として入った。その家に行けば裕福でよいからと…」。

金さんはその家で胸がときめく男性に会った。慰安婦として連れて行かれる直前、養父と一緒に暮らしていた家によく出入りする青年だった。「約1年間ほど出入りしたので知ることになった。手をつないだりするほどではなかったが、好きだった」。しかし2人の愛は順調にはいかなかった。男性の親が反対したからだ。「昔は大人が反対すれば好きにすることができなかった。なぜか交際をするなと私に言ってきた」。青年は親の強要で他の女性と結婚した。

16歳になった年、女性は慰安所に連れて行かれた。黒いチマ(スカート)に薄緑のチョゴリを着て軍服を着た男をついて行った。「お金を稼げるところがあるから行ってみて、そうでなければ戻ってくればいい」という養父の言葉が、家を出る時に聞いた最後のあいさつだった。

貨物車に乗って一昼夜走った後、トラックに乗り換えてかなり行って到着したところは中国吉林省琿春の慰安所だった。ちょうど生理が始まった少女は平日には将校を、週末には一般軍人を相手にしなければならなかった。

「一人ずつ来る人はいない。グループでトラックに乗って来たり歩いて来たり。部屋ごとに列をつくって待ち、100人くらい外にいて」。逃亡は考えられなかった。「逃げようとしたが捕まり、死ぬほど殴られた。監視がどれほど厳しいか…当時のことを考えれば悲しくてうんざりする」。

最も気の毒なのは聴力を失ったことだ。金さんは「最初に入ってきた人が将校だったが、日本語を聞き取れないから耳を殴られ…鼓膜が破れて今も耳が聞こえない」と語った。きちんと治療を受けることができないため、今までずっと右耳だけで聞いている。

1945年に解放されが、何のことが分からなかった。「行きたいところに行け」という慰安所管理者の言葉が金さんには「解放」だった。慰安所の友人7人と白頭山(ペクドゥサン)を経て豆満江(トゥマンガン)を渡った。家を出た時のようにお金は一銭もなかった。

「何を食べたのかも分からない。屋根があるところで寝て、空き家に入って寝たりもした。完全に乞食だった」。会寧(フェリョン)に渡って貨物車に乗り、鉄原(チョルウォン)まで来たが、自分を捨てた養父のところには行かなかった。道を歩いていると、初恋の男性にあった。この男性は徴用されていたと語った。


<慰安婦生存者13人証言>数奇な人生、そして勲章(2)

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    <慰安婦生存者13人証言>数奇な人生、そして勲章(1)

    2015.08.17 15:35
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    金君子さんは「自分が使うお金は惜しいが、寄付するのは全く惜しいと思わない。服はにおいがしないほどならよく、食と住はここに(ナヌムの家)ですることになった」と話した。
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